四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

らんざん ラベンダーまつり

2019年06月17日 | 花・鳥・風景


埼玉県比企郡嵐山町鎌形地内に嵐山町が整備を進めている「千年の苑(その)ラベンダー園」が本オープンし、
只今、「らんざん ラベンダーまつり」を開催中ですので行って来ました。




昨年のプレオープンの時は、園内の駐車場が利用できましたが、今年は園外の駐車場を利用しなければなりま
せん。




本オープンの今年はしっかり関所(チケット売り場)が設けられて、通行手形を購入しての入園です。




昨年のプレオープンで訪れたときはだいぶ咲いていましたが、本日のところは四分咲くらいのようです。




ベンチが並んだ休憩所が設けられています




見晴らし台も設置されています




嵐山町のマスコットキャラクター「むさし嵐丸」くんもお出ましです






平日はお店が出ないと思っていましたが、期間中は出店のようです。






嵐山名物の「嵐山辛モツ焼きそば」が出店していましたので、今回も。






白いラベンダーもあったのですね  ロングホワイト  そのまんまの名ですね(失礼)


<









今年も摘み取り(有料)をやっていましたが、今年はパスしました。

散策日:令和元年(2019)6月17日(月)

広木大町古墳群(埼玉県美里町)

2019年06月16日 | 古墳


名 称:広木大町古墳群(ひろきおおまちこふんぐん)
別 名:-
墳 形:前方後円墳、円墳、方墳
規 模:≪両子塚古墳≫ 墳長28m、後円部径15m、高さ2m、前方部幅12m、高さ2.5m
築 造:古墳時代後期
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:広木大町古墳群 昭和51年(1976)10月1日選定)
    美里町指定史跡(名称:広木・大町古墳群 昭和59年(1984)2月29日指定)
概 要:両子塚古墳(前方後円墳)を主墳とする古墳群。現存8基
所在地:埼玉県児玉郡美里町広木
    
美里町の西部を流れる小山川(旧身馴川)の右岸に築かれた古墳時代後期の古墳群です。古墳群は昭和49年度の
1次から7次にわたって調査が行われ、130基以上の古墳が確認されたようですが、開墾等に現在墳丘を見ること
が出来るのは両子塚(ふたごづか)古墳を含めて8基だけとなっています。




広木大町古墳群に設置されている説明板




小規模な円墳です




ここに現存する7基を一緒に撮るのは難しい  空撮でもすれば別ですが




同上




7基が集中するところから東方約400mにある両子塚古墳(ふたごづか・二子塚古墳とも)




写真左側の小高い方が後円部かと思いきや前方部だそうです  後円部は大きく削られてしまったようです
右側に見えるネットは『摩訶の池』を利用したゴルフ練習場




こちらの写真では右側が前方部です




両子塚古墳から7基が集中する古墳群を・・・

散策日:令和元年(2019)5月13日(月)

古凍氏館(埼玉県美里町)

2019年06月15日 | 100名城以外の城館跡


城 名:古凍氏館(ふるごおりしやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:平安時代~鎌倉時代
城 主:伝 古凍左近入道
遺 構:土塁・堀
指 定:-
所在地:埼玉県児玉郡美里町古郡

美里町役場の北方250m程の住宅地宅地の中に、土塁と堀の一部が遺る古凍左近入道の館跡と伝わるところがある
とのことから訪ねてみました。
古凍氏は、武蔵七党の丹党の流れをくむもので、当地に在し在名を氏としたようです。




西側の土塁と堀跡の水路  木の枝で先が見えませんが更に北方に延びているものと推測します




南側の土塁  道路となっているところは堀跡のようです
現住する民家の土塁と堀跡ですので深入りはできませんでしたが、宅地化が進んでいる場所にこれだけでも土塁
と堀跡が遺っていることはある意味奇跡かも知れません。

散策日:令和元年(2019)5月13日(月)

令和元年度歴史講座1 第3回「戦国期の鉢形領内合戦と城」

2019年06月14日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
令和元年度歴史講座1「戦国時代の城づくり」
第3回 「戦国期の鉢形領内合戦と城」
講 師: 梅 沢 太 久 夫 氏(元埼玉県立歴史資料館館長)
日 時: 令和元年(2019)6月14日(金)13:45~15:30  ※15:45までお話をしていただきました
会 場: 国立女性教育会館研修棟 講堂 (埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

を聴講してきました。

古文書等から合戦の背景にあるものや、どんな人物がどのような関わりを持っていたかなどを知ることが大切で
ある。また、城は縄張りを見るだけでなく、どんな役割のために築かれたかなども考えてみる必要がある。と言
ったお話をしていだきました。(先生の言わんとしたことを上手く表現できませんが)




講座資料
今回のテーマに該当する城跡の写真がありません 残念ながら未だ行っていない城跡ばかりなもので




アジサイの季節です  女性教育会館の敷地内に咲くアジサイをちょっとだけ撮ってみました






聴講日:令和元年(2019)6月14日(金)

不動大橋(群馬県長野原町)

2019年06月13日 | 花・鳥・風景


昨12日(水)、群馬県長野原町に国が建設している多目的ダム「八ッ場(やんば)ダム」の本体部分にコンク
リートを流し込む「打設(だせつ)」が終了し、建設現場で「打設完了式」が行われたそうです。。建設計画か
ら67年。地元住民の激しい反対運動や、先の政権による建設中止など、複雑な経過をたどったダム建設は、今
年秋に試験湛水が行われ、来春の完成に向けて大きな節目を迎えたようです。

建設中止が表明されたのが平成21年(2009)9月でしたが、その1ケ月ちょっと後に、八ッ場ダム建設現場付
近まである趣味で遊びに行き、何枚かの写真を撮って来たのを思い出しました。
八ッ場ダム建設現場を見ることが目的ではなく、行ったところがたまたま現場付近であったわけですが、橋を架
けている工事中の写真を記念にと撮ってきたにすぎません。
雨が降っていたものですから、撮った写真は暗くてシルエットしか分りませんでしたので画像処理で何とか見え
るようにしてみました。




完成後に『不動大橋(湖面2号橋)』と名付けられたこの橋は、八ッ場ダム、八ッ場大橋(湖面1号橋)の下流
に位置します。
ダム本体の工事は中止になりましたが、八ッ場ダム建設工事の一環として行われていた橋の工事は継続していた
ようです。




吾妻川に架かるこの橋は「上湯原橋」  来年はダム湖の中に沈んでしまいます。








この『不動大橋(湖面2号橋)』は平成23年(2011)4月に開通したようです




写真の右方に吾妻線「川原湯温泉駅」がありますが、ダムの水没地域に含まれるため、線路の付け替えおよび駅
の移設が行われ、平成25年(2014)10月に旧駅から南西へ約1.5km離れた、約70mほど高い現在地へ新築移
転したようです。




吾妻川渓谷

10年も前の写真を今更持ち出してと言われるかもしれませんが、こうした節目の時でなければ持ち出せません
し、あくまで自己満足です。
写真撮影日は写真にも書き込みましたが、2009.10.25です。

猪俣の正円寺・二柱神社(埼玉県美里町)

2019年06月12日 | 神社仏閣


寺号等:猪俣山 歓喜院 正円寺(いのまたさん かんきいん しょうえんじ)
宗 派:高野山真言宗
本 尊:十一面観世音菩薩像
創 建:不詳
所在地:埼玉県児玉郡美里町猪俣2146

社 号:二柱神社(ふたはしらじんじゃ)
祭 神:伊邪那岐命・伊邪那美命 (いざなきのみこと・いざなみのみこと)
境内社:伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社他
創 建:不詳
所在地:埼玉県児玉郡美里町猪俣2144
備 考:旧猪俣村の鎮守 (江戸時代)

猪俣氏の館跡とされるすぐ近くにある「正円寺」、「二柱神社」を訪ねてみました。何れも猪俣氏との関わりが
ある寺社です。正円寺は、二柱神社は、聖天宮と称し、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられます。正円寺は聖天
宮の別当でした。

一の鳥居(上の写真)の先に正円寺があり、更にその先に二柱神社が鎮座します。寺社の前を流れる正円寺川は、
猪俣小平六館の水堀の役割を成していたようです。




猪俣山 正円寺




正円寺境内入り口に猪俣邦憲が聖天社に奉納したという2つの鰐口についての説明板が設置されています。
猪俣邦憲と言えば、後北条氏の家臣で、名胡桃城を奪取したことで、豊臣秀吉の小田原攻めの口実を与えたあの
人物です。




「永禄鰐口」説明板




「天正鰐口」説明文




鐘楼




正円寺本堂




扁額「正圓寺」と揮毫




正円寺・二柱神社前を流れる「正円寺川」




二柱神社境内




二柱神社御由緒




手水舎




二の鳥居と二柱神社拝殿




同上  鳥居越しに




二の鳥居に掲げられている神額 「二柱神社」と揮毫




ニ柱神社拝殿




ニ柱神社の社殿(拝殿・本殿)を斜めから




向拝の貫柱の左右の木鼻の彫刻




「ニ柱神社」扁額




拝殿の中
門帳にあるのは「違い大根紋」で、当社の神紋のようです。
御由緒にも記されていましたが、当社の旧社名は聖天社で、聖天信仰が盛んであったことから、聖天様は二又大
根を好物としたことから供え物としていた。そんなことから大根紋である違い大根紋を神紋としたのでしょう。




社殿の右側にある境内社




社殿の左側にある境内社




拝殿前から二の鳥居方向に

参詣美:令和元年(2019)5月25日(土)

猪俣の百八燈(埼玉県美里町)

2019年06月11日 | 史跡・遺跡・文化財
■ 国指定重要無形民俗文化財 猪俣の百八燈



名 称:猪俣の百八燈(いのまたのひゃくはっとう)
行事日:毎年8月15日
概 要:6歳から18歳までの青少年が、堂前山の尾根に百八基の塚を築き、火を灯す。地元では、猪俣小平六
    範綱の霊を慰めるものと伝えられている。
指 定:国指定重要無形民俗文化財(昭和62年(1987)1月8日指定)
保護団体:猪俣百万燈保存会
開催地:埼玉県児玉郡美里町猪俣 

猪俣の百八燈は、400年以上続く盆祭りの行事で、武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領・猪俣小平六範綱及びその一族
の霊を慰めるためと伝えられる。
行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の
一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色で、準備も、親方の指示に従って子供たちが行います。

この行事の存在は知っていましたが見たことはありません。今回、猪俣の百八燈が行われる堂前山まで塚を見に行
って来ました。
行事を見に行ったわけではなく、塚を見に行ったわけですから『猪俣の百八燈の塚』が正しいかも知れませんね。




堂前山の斜面に生垣で書かれた「みさと」の文字




国道254号線沿いにある「猪俣の百八燈」の看板   ここから坂道を上がって堂前山の山頂下の広場に向います




舗装された道路  あっという間に到着です




手入れの行き届いた綺麗な公園となっています




四阿もあります




百八燈の塚が堂前山の尾根のほぼ南北に弓なりに並んでいます




百八の塚のほぼ中央あたりに説明板が建てられています




「猪俣の百八燈」説明板と塚




「猪俣の百八燈」説明板




百八の塚の中央に「五重塚」と呼ばれる大きな塚が2基あります。普通の塚の2倍くらいの大きさです。




これが普通の塚です。行事当日には灯油の入った急須が置かれて火がともされます。




説明板に、急須が乗った塚の写真がありましたので参考までに




写真中央に見えるのが高台院
行事参加の青少年たちは高台院を出発してこの尾根まで来ます




塚を北方から南方に見ています




百八の塚の両端にある2基は「留塚」と呼ばれ、大きさも五重塚と普通の塚の中間くらいです




再び塚を北方から南方に見ています




南端の留塚  普通の塚は急須に入った灯油を灯しますが、五重塚と留塚の4基は焚き木を灯します




行事当日、関係者はここ高台院で諸々の行事を行ったあと、堂前山の百八灯の塚に向います




猪俣の百八燈塚の標柱前を通って




猪俣小平六の墓の前を通って  ここの塚に火が灯されます




田んぼのあぜ道を通ってとありましたが、実際に歩いてみたらいくつかの道筋がありましたので、どの道筋かわ
かりませんが取り敢えずはここのの写真を




池の脇を通って




堂前山の斜面をジグザグに上がって行き、2基の五重塚の前に辿り着きます。最初に火が灯されるのが五重塚.

散策日:令和元年(2019)5月25日(土)他

猪俣小平六の墓(埼玉県美里町)

2019年06月10日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:猪俣小平六の墓(いのまたこへいろくのはか)
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:猪俣小平六墓 昭和38年(1963)8月27日指定)
所在地:埼玉県児玉郡美里町猪俣 高台院

高台院の創建年代は不詳ですが、猪俣氏が創建したと伝えられ、境内の一隅に県指定旧跡の猪俣小平太範綱の墓
をはじめ、9基の五輪塔があります
猪俣氏は、小野篁(おののたかむら)の子孫で時資(ときすけ)の代に猪俣村に住んで以来、猪俣氏と称しまし
た。
時範から数えて5代目の子孫が小平六範綱であり、武蔵武士の猪俣党として勇名を馳せました。源義朝に従い軍
功を立て、義朝十七騎の一人として知られていました。また、頼朝に仕え、しばしば戦場において功績をあげま
した。建久3年(1192)に死去

国道254号線沿いに建つ「猪俣小平六範綱の墓」の標識に頼って高台院を目指します




途中の空き地には複数の石造物が並んでいます




緩い坂道を上り詰めたところに「猪俣小平六の墓」の標識が建っています




高台院  高野山真言宗のお寺で 山号を松久山 寺号を明王寺と号します
毎年8月15日に行われる盆の行事である「猪俣の百八灯」は、ここ高台院を出発して堂前山の尾根に向かいます。

猪俣小平六の墓と一族の墓は高台院にあるという情報だけで、具体的にどこにあるのか調べずに行ったものです
から、本堂裏手の墓地の中を探してみるも発見できず。
あらためて詳細を調べて3日後に再訪問という有様(いつものことですが)




本堂のある場所から一旦少し下に戻って「←猪俣の百八灯塚」の標柱の示す方向に




途中、猪俣の百八灯塚方向への道と分岐しますが、そのまま道なりに進むと池があり、その先に・・・




石垣と大きな石の門柱の中に墓所があります




右側の門柱の内側に大きな塚があります  8月15日にはこの塚にも灯がともされるとあります




「猪俣小平六の墓」説明板




供養塔  右の石碑を指すのでしょうか  碑文は読めませんが、「猪俣小平六範綱碑」とあります
裏面に  建立大正十二年九月建立  大澤村史蹟保存會 大澤村青年團  とあります
大澤村は現在美里町の一部となっていて、学校名等にその名を残しています




9基の五輪塔が並んでいます




9基の五輪塔を右方向から見ています




「猪俣小平六範綱之墓」の標柱がありますが、さて、小平六の墓は左右のどっち?




高台院前から百八灯塚のある堂前山を望みます

散策日:令和元年(2019)5月27日(月)

猪俣小平六館(埼玉県美里町)

2019年06月09日 | 100名城以外の城館跡


城 名:猪俣小平六館(いのまたこへいろくやかた)
別 名:猪俣氏館・猪俣小平六範綱館
形 態:居館
時 期:平安時代(寿永年間)
築城主:猪俣小平六範綱
城 主:猪俣小平六範綱
遺 構:-
指 定:-
現 況:住宅地、農地
所在地:埼玉県児玉郡美里町猪俣

猪俣氏は小野篁の子孫で、時資の代に猪俣村に住み猪俣氏を名乗りました。4代目の猪俣小平六範綱は保元の乱
で源義朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげました。義朝配下の十六騎の雄将としても知られます。
源頼朝・義経にも仕え、一ノ谷の戦いで平盛俊を騙し討ちにしたことでも有名です。その後、後北条氏に仕え、
豊臣秀吉の小田原攻めのきっかけをつくった猪俣邦憲がいます(本姓は富永・猪俣氏へ養子)




猪俣小平六館跡の遺構はないということであったし、館跡には石碑が建っているのみで、その石碑すら見つけ辛
いとの情報でした。私にとっては館跡の場所すらも定かではありませんでしたが、最近入手した「美里町文化財
めぐり」のパンフレットに『猪俣小平六館跡』の地図が載っておりましたので、これを頼りに散策してみました。
地図があるにも関わらず、方向音痴の私は全く違う場所を一生懸命に暑い中を歩いて時間を無駄にしてしまいま
したが。

猪俣川と正円寺川に囲まれた茶色の部分が館跡ということです。これらの川は居館の堀の役目を担っていたよう
ですが、改良工事によっても元の形ではないようです。

川で囲まれた館跡部分には入れませんでしたが、折角ですから無駄とは分りつつも汗をかきかき、水分補給をし
ながら周辺を歩いてみました。




どうにか辿り着いたのが上記地図の場所でしたので、ここから散策開始です。
この丁字路の向こう側が館跡の南西角に当たります。
この左側にあるお店(休業)の敷地隅に見つけたのが下の写真です。




お堂と石碑です




石碑「猪俣小平六範綱愛馬之碑」とあります




館跡西側道路をから北方に見ています




西側道路を北方に歩き始めてすぐ道路右端の所に「猪俣小平六範綱舘趾」の石碑を発見
発見には手間取ると覚悟していましたが、まさかこんな早くに発見できるとは。
石碑というよりは石標と言った方が正しいかもしれません。標柱を設置してくれたお陰でしょう。




角度を変えてみてもやはり目立ちません




石標の右にある大きな石は何でしょう? 更にその右ののは五輪塔の残欠でしょうか




「猪俣小平六範綱舘趾」碑
これで用が済んだと言えば済んだわけなのですが、先にも書いたように折角ですからこの先を歩いてみることに
(この暑い中を)




一応、この石碑の背後一帯がパンフレットに書かれていた館跡の範囲なのでしょう。




館跡西側道路を更に北方に進むと橋があります。
銘板がなかったので橋の名前は分りませんでした。猪俣川に架かる橋です。 




橋の上から下流方向を見ています  右岸が館跡の範囲になります




先ほどの橋を渡り更に道なりに北側の道路を東方に進むとまた橋があります
やはり銘板がなく橋名は分りません 




先ほどのの所から続いている猪俣川の流れに、方向から流れてくる正円寺川が合流しています




更に北側道路を東方に進みの場所
ここを右折して進むとの猪俣橋のたもとに出ます。
このの間を往復してみましたが、住宅が並んでおり、館跡方向はうかがい知ることが出来ませんでした。




再び北側の道路に戻り更に東方に行ったの所を右折
パンフレットに示された館跡からはかなり外れていますが成り行きで・・・




の交差点際に複数の石造物が建っています




館跡南側道路に架かる「猪俣橋」 




猪俣橋の上から正円寺川を  左岸が館跡 右にある道を進むと先ほどのに出ます





出発点の所まで戻ってきました
結局暑い中を歩いただけで遺構らしきものは発見できませんでした。

散策日:令和元年(2019)5月27日(月)

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる2「戦国の山城・杉山城跡を訪ねる」

2019年06月07日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる2「戦国の山城・杉山城跡を訪ねる」

が、6月7日(金)に催行されましたので参加してきました。

縄張りの巧みさは日本屈指であり、「山城の教科書」とも言われている杉山城跡です。個人では複数回攻城して
いる城跡ですので、あらためて縄張りを確認するというよりも、参加の皆さんの城跡や文化財などにに対する考
え方や知識を少しでも吸収出来ればと参加した次第です。

生憎の雨天となったことにより、見学予定地をカットしたりコースの変更があったりしましたが、無事に終了し
ました。
本来なら、城跡の写真を多用すればよいのでしょうが、団体行動の上、雨でレンズが曇ったり雨粒が付いたりで
ほとんど撮っていません。「参加してきたよ」との意味合いで行程の写真を何枚か載せて置きますので、これで
ご勘弁の程を。




東武東上線武蔵嵐山駅が集合(9:45)・出発(10:00頃)場所です。




駅東口から線路沿いの道を




鎌倉街道上道跡の道路(歩道)を歩いて  信号機の先が志賀観音堂石仏群




志賀観音堂石仏群には寄らずに交差点を右折し嵐山町役場に向います




嵐山町役場の標識  ここから緩やかな坂を上がっていきます




そう高い山ではありませんが、嵐山町役場は山の上にあります




嵐山町役場に着きました  ここで時間調整と諸々の見学 




ロビーの一画にある続日本100名城スタンプ設置場所




その隣には杉山上の模型  諸々とはこれらのこと
博物館関係者や博物館のボランティアの方々を含めると60人位の大人数がロビーを占拠した形になってしまいました
「何、この人たちは?」と怪訝な顔をしている役場職員も・・・




役場を出て昼食をとる予定場所の杉山公民館に向います




杉山公民館に到着
公民館と言っても、集落の集会所のようで通常は閉まっていますので、主催者が鍵の管理者のもとへ鍵を借りに
行って使用させていただきました。ここで昼食休憩  
12:30 嵐山町の観光ボランティアの方3名と合流 参加者を3班編成にして杉山城跡に向います




杉山城が続日本100名城に選定された後に整備された見学者駐車場経由で城跡に向います
今後、車で杉山城跡に訪れる人のために駐車場の場所を知ってもらうという意味も込めてのコース設定




大手口に着きました
ここからは班ごとにボランティアの方と見学です 全員一緒の見学には無理がありますので3班別々のコース取り
をしての見学




ボランティアの方の説明を受けています




今歩いている場所は馬出郭辺りか?




馬出郭口前で説明しているボランティアの方
向うに見えるのは別の班の参加者 南三の郭の上ですね




本郭跡に建つ 史蹟杉山城阯の石碑と杉山城跡説明板




北三の郭の先にある搦手口




杉山城跡の見学を終え、市野川沿いの道を歩いて嵐山町立図書館経由で武蔵嵐山駅方向に




解散場所の武蔵嵐山駅に着きました(15:00頃)

以上、城跡見学のリポートでありながら肝心の郭や土塁等の説明や写真がなく恥ずかしい限りです。

散策日:令和元年(2019)6月7日(金)