四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

水殿瓦窯跡(埼玉県美里町)

2019年06月06日 | 古代窯跡
■ 国指定史跡 水殿瓦窯跡



名 称:水殿瓦窯跡(すいでんかわらかまあと)
種 別:瓦窯
形 態:平窯
時 期:鎌倉時代
指 定:国指定史跡(名称:水殿瓦窯跡  昭和6年(1958)11月26日指定)
所在地:埼玉県東児玉郡美里町沼上428-1

水殿瓦窯跡は埼玉県県の北西部、上武(じょうぶ)山地から連続する丘陵に囲まれた本庄台地の西南部に位置する
沼上地区にある鎌倉時代の窯跡で、現在までに4基の瓦窯跡が確認されています。ここから発見された瓦は文治
5年(1189)に源頼朝が建立した鎌倉市二階堂永福寺跡から発見された瓦と似ており、この瓦窯跡で焼かれた屋
根瓦(厚手の瓦で斜め格子の叩き目の中に「大」と読める文字のある平瓦や剣頭門の軒平瓦)が寛元・宝治年間
(1243~1249)に実施した永福寺の大改修の際に使用されたものと考えられています。




畑に囲まれた場所に水殿瓦窯跡はあり、覆屋で保護されています。




『水殿瓦窯跡』説明板

水殿瓦窯跡
 国指定史跡(昭和8年12月26日)
この窯は鎌倉時代のもので、この付近の粘土を使い、ここで瓦を焼いたものです。
この窯跡から斜格子文様の平瓦や剣頭文の軒平瓦が発見されています。
窯の長さは3.3mで函窯と焚場からできていて、函窯は、巾1.1m、奥行1.15m、深さは前壁で1.2m、後壁1.15mで
す。底に四条の縦溝と三本の畔があります。溝は前方の焚場に通じ、火気を呼ぶようにつくられています。奥壁
の上部から24cm、下方に約6cm角の穴一個があり、煙出しとなっています。
平成元年に確認調査が行われ、この窯の東側に、並行して更にもう三基の窯が発見されています。
    美里町教育委員会




石碑
末尾に昭和八年三月の文字が読めますが、碑文の判読は難しい状態になっています。国史跡の指定を記念して建
立されたようで、水殿瓦窯跡発掘の経緯などが記されているようです。




『史蹟 水殿窯阯』と刻まれている石標  ※この標柱には「瓦」の文字は入っていません




瓦葺きの立派な覆屋です。瓦を焼いていた窯跡を覆うのですから瓦を使って当然・・・とは言いません




覆屋の中を覗いてみたらこの通りコンクリートでしっかり固められていました。
発掘したまま野晒しにしておくわけにはいきません。調査後の遺跡は埋め戻して保存するのが常識のようです。
覆屋の窓ガラスに発掘時の写真等が貼られていましたが、ガラスの内側ですので、反射してうまい具合には写真
が撮れません。

散策日:令和元年(2019)5月11日(土)

十条条里遺跡(埼玉県美里町)

2019年06月05日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:十条条里遺跡(じゅうじょうじょうりいせき)
別 名:-
時 期:古代から中世後期(大化の改新以降)
指 定:埼玉県指定史跡(名称:十条条里遺跡  昭和26年(1951)3月31日指定)
所在地:埼玉県児玉郡美里町南十条

大化の改新の制により実施された班田収受法の遺跡です。地名ともなっている十条の名は、南より第十条にあた
るところで、現在その碑が残っています。




『十条条里跡の由来』碑と『史跡 十条条里遺跡』碑




『十条条里跡の由来』 班田収授について詳しく説明されています





『十条条里遺跡』説明板




耕地整理により条里地割の跡はありませんが、この下に遺構が眠っているかもしれません。

散策日:令和元年(2019)5月13日(月)

とうかん山古墳(埼玉県熊谷市)

2019年06月04日 | 古墳


名 称:とうかん山古墳(とうかんやまこふん)
別 名:-
墳 形:前方後円墳
規 模:全長74m、後円部直径37m、高5.5m・前方部は幅42m、高さ6m
築 造:6世紀中頃と推定
指 定:埼玉県指定史跡(名称:とうかん山古墳  平成元年(1989)3月17日指定)
所在地:埼玉県熊谷市箕輪字北廓(旧大里郡大里町)

とうかん山古墳は、江南台地上、標高24メートルの地点に築造された古墳です。墳丘は宅地造成によって一部変
形していますが、同地に残された唯一形のわかる前方後円墳です。




前方部西側の墳丘下に設置されている『とうかん山古墳説明板』




『とうかん山古墳説明板』
褪色して判読できませんので書き写しておきます。内容については冒頭に記した概要と同じです。

埼玉県指定文化財 史跡 とうかん山古墳             
                                 指定 平成元年3月17日
                                 所在 大字箕輪字北廓
 この古墳の名称は、墳頂に稲荷社(おとうか様)や十日夜碑があることから、とうかん山古墳と呼ばれています。
 古墳の形は、前方後円墳であり、規模は、全長74m、後円部の高さ5.5m、前方部の高さ6mです。時期に
ついては、発掘調査が実施されていないので明確ではありませんが、採集された埴輪破片から6世紀中頃と考えら
れております。
 かつて、この地域には多数の古墳が存在しており、本古墳はその中心的な古墳であったと思われます。現在では
周辺の古墳は失われ幾つかが残るだけですが、その残された古墳の中でも本古墳は当時の原形をとどめていること
で大変貴重なものと言えます。  
  平成3年3月                      埼玉県教育委員会 熊谷教育委員会 




『古墳実測図』 どうにか分る程度に画像処理してみました




前方部の南側に設けられた階段を上がります




前方部に建立されている『稲荷神社』




前方部墳頂から見たとうかん山古墳南側の模様




稲荷神社




稲荷神社の左方向にある石祠




稲荷神社の右方向(後円部方向)にある石祠  『金毘羅大権現』とあります




〔くびれ〕辺りから後円部を




後円部北側の模様




〔くびれ〕辺りから前方部を




北側から見た後円部




北側から前方部方向を




後円部の北側にある崩落部個所  ←の所




東側を走る道路から  塀や民家で全体を撮るのは無理




東側から後円部の東端を見る




忠魂碑越しに同じく後円部の東端を見る

散策日:令和元年(2019)5月7日(火)

甲山古墳(埼玉県熊谷市)

2019年06月03日 | 古墳


名 称:甲山古墳(かぶとやまこふん)
別 名:-
墳 形:円墳
規 模:全長90m、高さ11.25m、2段築成の大型の円墳
築 造:古墳時代後期・6世紀前半
指 定:埼玉県指定史跡(名称:甲山古墳 平成元年(1989)3月17日指定)
所在地:埼玉県熊谷市胄山(旧大里郡大里町)

甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約51mの丘陵上に構築された2段築成の大型円墳で、埼玉県下で
は行田市の丸墓山古墳に次ぐ第2位(全国では現在第5位)の規模の古墳です。
古墳中段にテラスを持ち、古墳の形がちょうど「かぶと」のようなことからこの名が付けられたようです。古墳名
では「甲山」の文字を使っていますが、地名では「胄山」の文字を使っています。墳頂には、冑山神社(八幡様)
の本殿が、墳丘東側には冑山神社があります。また、帆立貝形古墳とする説もあるようです。




古墳東側に建つ甲山神社の一の鳥居




一の鳥居から二の鳥居に至る参道の右端に「熊谷市胄山地域の文化財」の案内板が設置されています




「熊谷市胄山地域の文化財」の案内板




案内板の中から甲山古墳の空撮写真を




ニの鳥居




胄山神社への石段




甲山神社前のテラス




「埼玉県指定文化財 史跡 甲山古墳」説明板




甲山古墳平面図




甲山古墳断面図




冑山神社




冑山神社の北側にある祠




胄山神社の背後にある本殿への石段




本殿への石段を横から




本殿への石段を下から




石段の上から拝殿方向を




甲山古墳墳頂 覆屋で保護された甲山神社本殿




甲山神社本殿




本殿背後(西側)の模様




更に西側を下った場所 テラスか?



西側から南側にかけて




墳丘南側から冑山神社方向に




南方から甲山古墳のほぼ全体(半分くらいかな)を  (規模が大きく全体を撮れる場所がない)




墳丘東側から冑山神社方向に




甲山古墳北側の一部を




甲山古墳西側の一部を

散策日:令和元年(2019)5月7日(火)

ときがわ花菖蒲まつり2019

2019年06月02日 | 花・鳥・風景


2年ぶりに『ときがわ花菖蒲まつり』(埼玉県比企郡ときがわ町・ときがわ花菖蒲園)に行って来ました。
本日2日はイベント開催日と言うことで沢山のお店が出ていました。また、地元団体の太鼓打奏・流し踊りがあ
りましたが、見学したのは流し踊りのみ。
拙い写真ですが何枚か載せておきます。








































散策日:令和元年(2019)6月2日(日)

鎌倉街道 上道跡-鳩山町・赤沼-(埼玉県鳩山町)

2019年06月01日 | 鎌倉街道


埼玉県比企郡鳩山町赤沼地内の「鎌倉街道上道跡」を歩いてきました。跡と言っても堀割状等の遺構があるわけ
でもありませんし、歩いたと言っても点から点までの線を歩いたわけではなく2、3か所のポイントを訪ねただ
けの話ではありますが。

鎌倉から上道は所沢市、入間市などを通り、毛呂山町から鳩山町に入ります。今宿郵便局を過ぎたあたりからは、
現在の県道171号線(ときがわ坂戸線)とほぼ同じ道筋を北上してきます。
進行方向左側に一寿司という飲食店が見えてきますが、その道向かいに右斜めに入る道があります。鎌倉街道は
こちらに進んでいきます。(上の写真↑)




ここが鎌倉街道跡のようですが、右に逸れてから少ししたところに十字路があり、その右角に赤沼供養塔と言わ
れる3基の供養塔が建っています。(→の所)




赤沼供養塔3基の右側には倒れかけた道標があります。
摩耗して文字が薄くなっていますが、正面には《小川道・川越道》 右側面には《赤沼入口》とあります。
赤沼供養塔の中央の供養塔には、《日本廻国四国七遍供羪塔》と刻まれています。




日本廻国四国七遍供羪塔の右側面には、
 安永八年(1779)
   北 ひきの岩殿道 
   中 すがや野原道 
   西 小がわちち婦道
とあり、すがや野原道が鎌倉街道の道筋を指しているようです。




赤沼供養塔前の町は少し先で再び県道に合流し、鎌倉街道跡の道筋は消滅してしまいます。




鳩山町保健センターの東方の畑の中に墓地がありますが、ここに街道杉があったと言われ、ここを鎌倉街道が北
に向けて通っていたようです。




県道の東側を沿うように走っていたと推定される道筋は鳩山中学校に突き当たります。
同中学校の南側のフェンス際に「鎌倉街道」説明板が設置されています。




「鎌倉街道」説明板




鳩山村(町)内鎌倉街道内街道図部分をアップで




鳩山中学校校舎  以前は校舎の下に堀割状の遺構があったとのことですが、校舎改築のため埋められてしまい、
現在はあった位置さえ不明のようです。

散策日:平成31年(2019)4月25日(木)