帝都高速度交通営団 永田町から80円区間ゆき 片道乗車券

1980(昭和55)年6月に帝都高速度交通営団(営団地下鉄。現・東京メトロ)永田町駅で発行された、80円区間ゆきの片道乗車券です。


   

緑色PJRてつどう地紋のB型金額式大人・小児用券で、山口交通印刷系列の帝都交通印刷で調製されたものと思われます。

当時の同駅は今では有楽町線の他に半蔵門線や南北線が乗り入れ、赤坂見附駅と連絡通路で結ばれているために銀座線や丸ノ内線との乗換駅となっていますが、当時は有楽町線のみの駅で、全く別の駅であった赤坂見附駅との乗換駅としての扱いが始まったばかりの頃でした。

同駅のある永田町は日本の政治の中心地で、国会議事堂や首相官邸、自民党などの政党本部や最高裁判所などの施設が多く、また、国立劇場や老舗ホテルなども多く、混雑による一時的な券売機の渋滞などがしばしば起こっていたようです。そのため、比較的多い確率で硬券による臨時発売が行われていました。
御紹介の券は管理人が中学校時代の帰宅途中に臨発を見かけたために購入したもので、臨発の理由となったイベントには全く興味がありませんでしたし、何があったのか全くもって覚えていません。


この、日本の政治の中心地である永田町では、今から85年前の今日である1936(昭和11)年2月26日の未明、陸軍の「皇道派」に属する青年将校が近衛師団の近衛歩兵第三連隊、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊に所属する1,483名の将兵を使い、クーデターを起こします。クーデターは午前5時に一斉に開始され、首相官邸や赤坂の高橋是清蔵相私邸、四谷の斎藤実内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃し、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部、国会議事堂を占拠します。そして政治や軍の中枢である永田町・三宅坂周辺を完全に占拠し、東京は一時、戒厳令下に置かれます。
これが「二・二六事件」という当時の陸軍青年将校による反乱事件です。

その後、一時は成功すると思われたクーデターは、途中から一転して思わぬ展開により、わずか数日で崩れ去る結果になります。彼らは政府要人を襲い、首相官邸や陸軍省、参謀本部、国会議事堂といった主要官庁や一部のマスコミを制圧しました。ところが、青年将校らは、自分たちの役割はあくまで現政府を破壊して政治の混乱を招くことと考えており、実際のシナリオもそこまでで終わりで、ここから先は皇道派の上層部たちに実行してもらうというあいまいな計画内容であり、「上層部頼み」実行に移されてしまった計画は、わずか4日で鎮圧されてしまいます。
また、対応に煮え切らない陸軍に対して昭和天皇が激怒し、「朕(ちん)自ら近衛師団を率いて鎮圧に乗り出す」とまで発言したことから海軍が鎮圧に強い意向を示し、はじめはクーデター部隊にも理解を示していた陸軍上層部も、天皇の理解が得られないとみると突如として手のひらを返し、「蹶起(けっき)部隊」「行動隊」と呼んでいた青年将校らを「反乱軍」「叛徒(はんと)」と呼び、戦車を含めた総計2万4,000人もの包囲軍を組織して鎮圧してしまいます。
2月29日朝、鎮圧部隊は反乱軍とされた部隊に向け、「一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」と投降を呼びかけるビラが投じ、それがもととなって続々と投降が相次いだため、わずか4日で決起は終息しています。
それでも、多くの青年将校らは自決せず、裁判で自分たちの正義を広く世間に主張するつもりでしたが、開廷された裁判は「一審制」「上告なし」「非公開」「弁護人なし」というもので、中心となった将校ら17人に死刑判決が下り、1週間後にはほとんどの者に刑が執行されています。
陸軍将校が処刑(銃殺)されたのは、現在の渋谷税務署などの入る渋谷地方合同庁舎のあるあたりにあった東京陸軍刑務所で、敷地の北西角には犠牲者と処刑者を弔う「二・二六事件慰霊像」という観音像が建立されています。

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