恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

人間関係は複雑怪奇

2005年06月25日 | 所感とか
人間が生きていく上で重要なものに人間関係というものがあります。
もちろん重要であるからこそ、それに伴った悩みなども尽きないわけですが、
如何にその人物が一匹狼を気取っていたとしても、
所詮人間という生き物は人間同士の関わりから離れて生きていくことはできない、
というように私自身は考えています。異論は色々とあるでしょうがね。
多くの人はこの人間関係というものによってその人生すら左右されることもあるでしょう。
自分にとって天職だと思っていた仕事に就き、実際にそれがその通りであっても、
もしその職場に一人でも気が合わないとか苦手と感じる人がいると、
もうそれだけで職場に向かいたくない、という気持ちになったりもするものでしょう。
まぁ人生経験の浅い私にとってみれば、何を知ったつもりで、となるかもしれませんが、
少なくとも今までの二十数年間の人生の中においても、それは大いに経験のあること。
学校なんかで良好だった人間関係がほんの小さな諍いが生じたことによって、
次の日に学校に行きたくなくなってしまう、というような小さなことですがね。

そういう幼い頃の人間関係というのはまだ人格が未形成である部分もあってか、
人の好き嫌いだとか、思ったことをズケズケということを厭わない側面がありますが、
ある程度の大人になってくると、人間にはそういったことを忌避する傾向にあります。
要は、心の奥底では不満を抱いていたとしても、それをぐっと堪える、
ということが段々と年を重ねるごとに身についてくるわけですが、
逆にそれが、相手が何を考えているんだかわからない、という風になってくるわけです。
自分の中には相手に対する不満があっても、今の関係を乱したくないという観点から、
ついつい胸にその思いをしまいこんでしまい、そのぶんストレスが溜まる、と。
これがまた人間関係をさらにややこしくしてしまっている原因かもしれません。

真の友好関係とは、相手が指摘されたくない痛い部分であったとしても、
もし相手のことを真剣に考えているのであれば、それを見過ごすことなく、
お互いに言いたいことを言い合うことが出来る関係なんじゃないかと常々思っています。
それはなにも日本が中国やら韓国から言われたことを何でもかんでも、
「その通りでございます」とばかりに頭を下げる関係を揶揄するわけではありませんが、
それが相手の為だと思えば尻込みすることなく言うべきは言う、と。
もちろんこれを私が実践できているかといえば全然そんなことなくて、
むしろ理想論的な部分を述べているような気もしますがね。
実際には現状をこれ以上おかしくしたくない、という感情が先立ってしまい、
ついつい相手のダメな部分にも目を瞑ってしまうことが多いんですけどね。
まぁそれが原因で胃を痛めているのはさっきの例に出したとおり。
理想と現実はかくも程遠いものかと思わざるを得ませんが、
理想に少しでも近づくためにはまず現実を直視しなきゃな。
そして自分自身の問題点を探っていかなきゃならんわけです。

人間関係って良好な時は大して気に留めないものですが、
悪化した時にこそそのありがたさがわかってくるもんなんですね。
なくした時にわかる本当に大切なもの、ってやつですか。
そんなことに現在進行形で直面している私自身なんとも大儀、大儀。
ちなみに今日のタイトルと平沼騏一郎は一切関係ありません。
わかる人だけわかってくれればいいです。

恐懼謹言。
コメント
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