「経気」について学んだ。人間の実体と機能の頭脳による統括についての自身のイメージが広がった。
金曜日の東概の授業。「蔵象」の項が終わり「経絡」「病因病機」へと入っていった。その中で「経気」に関わってイメージできない部分があり質問した。
「経気」について教科書では、以下の記述がある。
(1)「経絡の機能を経気と呼び、これは生理物質や情報を伝導することを表すものであり、宗気、原気、衛気などの機能によって発揮される。」
また、別の箇所には以下の記述もある。
(2)「営気、衛気、血、津液などの生理物質は、宗気や原気などによって推動され、血脈や三焦を通って全身をめぐっている。」
(3)「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり、血脈や三焦は経絡の概念に内包されているため、経絡は生理物質の通路である。」
(1)(2)(3)の文は、一読して何を言っているのかわからず、特に、(3)「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり、血脈や三焦は経絡の概念に内包されているため、経絡は生理物質の通路である。」は、何ともイメージしがたい、ただ言葉の上だけの作文によるものと自身には思われた。
また、(1)で「経気」を「経絡の機能」と定義しているのに、後半ではそれ(=経気)が、「宗気、原気、衛気などの機能によって発揮される。」とされている部分も、非常にイメージし辛い部分であった。ここは、(3)では、「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり」とも書かれている。
これは、素直に読むならば、宗気や原気は「経絡を機能させる経気(=経絡の機能)」ということになる。と思え、「経絡を機能させる経絡の機能???」と、そのことのイメージが出来ず、これは「武士の侍」「女の婦人」「顔を洗面」「馬から落ちて落馬して」の類の日本語の誤用ではないのか?それとも、そのような論理構造が存在するのか?とアタマの中は大混乱のパニック状態となってしまった。
あれこれ考えて、休憩時間に「これは(経気の問題は)、鬼神思想と同じ論理構造なのでしょうか?」と質問したのだが、「そんな難しい話ではなくて・・・・・・。」「ここは、経絡の機能には(1)生理物質の通路(2)病邪が伝わり、病態を反映する通路(3)治療効果を発揮するための通路の三つがあると理解してもらえれば。」と言われた。また、「あまり文字面に囚われずに・・・・・・。」とも言われた。
結局、「経気」の問題については、イメージ出来ないままに授業が終わってしまった。
その日の帰りの電車の中で「新・頭脳の科学」を読んでいて気付いたことは、「もしかしたら、『経気』の問題は、『人間にあっては頭脳の働き(=機能)が、全身の実体と機能を統括している。』というのと同じ論理が説かれているのでは?」ということであった。
どういうことかといえば、通常の物質にあっては、脳を持つ高等動物以外の生物にあっても、実体と機能といった場合は、両者は直接的同一性を持つものであり、例えば「太陽が熱い」といった場合に「熱い」ということは「太陽」という実体の機能であり、「太陽」という実体以外に、「熱い」という機能を発揮させる機能なるものを考える必要はない。というか、それを考えることは観念論への道となる。(例えば、「神が太陽が熱を生み出すようにしてくださっているのだ!」となると観念論=宗教である。)
しかし、である。人間にあっては、例えば「見る」ということは「眼」の機能であるが、それは「眼」単独での働きではなくて、必ず頭脳がそれを働かせているものである。
つまりは、「眼」の「見る」という機能を機能させる存在(=頭脳)を忘れるべきではない。という構造がある。「かくの如き構造の、観念論的な東洋医学としての表現が「経気」の問題の論理構造なのでは?」と思えたことである。
東洋医学では、頭脳による全身の実体と機能の統括ということは無い!ことになっているのであるから、このような表現となっているのではと思えた。
この件については、改めて詳細に考えていきたいと思う。
金曜日の東概の授業。「蔵象」の項が終わり「経絡」「病因病機」へと入っていった。その中で「経気」に関わってイメージできない部分があり質問した。
「経気」について教科書では、以下の記述がある。
(1)「経絡の機能を経気と呼び、これは生理物質や情報を伝導することを表すものであり、宗気、原気、衛気などの機能によって発揮される。」
また、別の箇所には以下の記述もある。
(2)「営気、衛気、血、津液などの生理物質は、宗気や原気などによって推動され、血脈や三焦を通って全身をめぐっている。」
(3)「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり、血脈や三焦は経絡の概念に内包されているため、経絡は生理物質の通路である。」
(1)(2)(3)の文は、一読して何を言っているのかわからず、特に、(3)「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり、血脈や三焦は経絡の概念に内包されているため、経絡は生理物質の通路である。」は、何ともイメージしがたい、ただ言葉の上だけの作文によるものと自身には思われた。
また、(1)で「経気」を「経絡の機能」と定義しているのに、後半ではそれ(=経気)が、「宗気、原気、衛気などの機能によって発揮される。」とされている部分も、非常にイメージし辛い部分であった。ここは、(3)では、「宗気や原気は、経絡を機能させる経気であり」とも書かれている。
これは、素直に読むならば、宗気や原気は「経絡を機能させる経気(=経絡の機能)」ということになる。と思え、「経絡を機能させる経絡の機能???」と、そのことのイメージが出来ず、これは「武士の侍」「女の婦人」「顔を洗面」「馬から落ちて落馬して」の類の日本語の誤用ではないのか?それとも、そのような論理構造が存在するのか?とアタマの中は大混乱のパニック状態となってしまった。
あれこれ考えて、休憩時間に「これは(経気の問題は)、鬼神思想と同じ論理構造なのでしょうか?」と質問したのだが、「そんな難しい話ではなくて・・・・・・。」「ここは、経絡の機能には(1)生理物質の通路(2)病邪が伝わり、病態を反映する通路(3)治療効果を発揮するための通路の三つがあると理解してもらえれば。」と言われた。また、「あまり文字面に囚われずに・・・・・・。」とも言われた。
結局、「経気」の問題については、イメージ出来ないままに授業が終わってしまった。
その日の帰りの電車の中で「新・頭脳の科学」を読んでいて気付いたことは、「もしかしたら、『経気』の問題は、『人間にあっては頭脳の働き(=機能)が、全身の実体と機能を統括している。』というのと同じ論理が説かれているのでは?」ということであった。
どういうことかといえば、通常の物質にあっては、脳を持つ高等動物以外の生物にあっても、実体と機能といった場合は、両者は直接的同一性を持つものであり、例えば「太陽が熱い」といった場合に「熱い」ということは「太陽」という実体の機能であり、「太陽」という実体以外に、「熱い」という機能を発揮させる機能なるものを考える必要はない。というか、それを考えることは観念論への道となる。(例えば、「神が太陽が熱を生み出すようにしてくださっているのだ!」となると観念論=宗教である。)
しかし、である。人間にあっては、例えば「見る」ということは「眼」の機能であるが、それは「眼」単独での働きではなくて、必ず頭脳がそれを働かせているものである。
つまりは、「眼」の「見る」という機能を機能させる存在(=頭脳)を忘れるべきではない。という構造がある。「かくの如き構造の、観念論的な東洋医学としての表現が「経気」の問題の論理構造なのでは?」と思えたことである。
東洋医学では、頭脳による全身の実体と機能の統括ということは無い!ことになっているのであるから、このような表現となっているのではと思えた。
この件については、改めて詳細に考えていきたいと思う。