目に見えないものを見ること、そしてそれを文章として書くこと、の大事性困難性を日々痛感している。
こう書くと、本ブログを読んでいただいている大多数の皆さんは、「?」となるのではないだろうか、それとも、「そうだよなあ、たしかに大事だよなあ、でも難しいよなあ」と共感していただけるだろうか?
例えば鍼灸等の施術において、喉が痛いといった場合に、喉の痛みのある部位(=喉)に鍼を打って効果があった場合には、目に見えるそのままとも言えるので、目に見えないもの云々ということはそれほどには問題にならない。
しかしながら、喉の痛みに魚際や合谷に鍼を打って効果があった場合、これは復溜や陽輔でもいいのだが、目に見えるものだけ見ていたのではそのことの理解が難しい、ということになるし、そもそもそのような鍼の打ち方も出来ない、ということになる。
結果として、肺経のツボだからとか腎経のツボだから、と知識的に解釈するしか無くなるということにも......。
それだけに、目に見えないものを視ることが、単純なレベルであれば、内部の神経や筋肉、骨の構造、繋がりを、少しレベルを上げて、患者の24時間の生活過程のあり方を踏まえての病の過程的構造を、もっと上のレベルであれば、患者の認識を視ることが、その実力を培うことが、施術の実力を培うには必須のことである、と痛感する。
また、それだけでは無しに、我々は人間なのであるから、視ることの出来た目に見えないものを、文章として書き残すことが......とも思える。
こう書くと、本ブログを読んでいただいている大多数の皆さんは、「?」となるのではないだろうか、それとも、「そうだよなあ、たしかに大事だよなあ、でも難しいよなあ」と共感していただけるだろうか?
例えば鍼灸等の施術において、喉が痛いといった場合に、喉の痛みのある部位(=喉)に鍼を打って効果があった場合には、目に見えるそのままとも言えるので、目に見えないもの云々ということはそれほどには問題にならない。
しかしながら、喉の痛みに魚際や合谷に鍼を打って効果があった場合、これは復溜や陽輔でもいいのだが、目に見えるものだけ見ていたのではそのことの理解が難しい、ということになるし、そもそもそのような鍼の打ち方も出来ない、ということになる。
結果として、肺経のツボだからとか腎経のツボだから、と知識的に解釈するしか無くなるということにも......。
それだけに、目に見えないものを視ることが、単純なレベルであれば、内部の神経や筋肉、骨の構造、繋がりを、少しレベルを上げて、患者の24時間の生活過程のあり方を踏まえての病の過程的構造を、もっと上のレベルであれば、患者の認識を視ることが、その実力を培うことが、施術の実力を培うには必須のことである、と痛感する。
また、それだけでは無しに、我々は人間なのであるから、視ることの出来た目に見えないものを、文章として書き残すことが......とも思える。