ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

もうすぐ100,000アクセス

2005-08-17 18:40:27 | パソコン日記


1997年3月に開設したホームページ「ペンギン夫婦お山歩日記」ですが、
お陰様でもう少しで10万アクセスを迎えます。
カウンタの設置がHP開設よりかなり後だったこと、カウンタのサーバー変更、
カウント方法変更などいろいろありましたので、今頃になって「ようやく」の思いです。

しかし、まったく私的な日記サイトをここまで続けて来られたのは、貴重なお時間を
さいてご覧くださった皆様のおかげと、常々感謝しております。

お礼の意味を込めまして、キリ番の10万番目にアクセスして頂いた方と、
その前後(99,999と100,001)の方に、本当にささやかですが、
気持ちだけの記念品をお送りさせて頂きたいと思います。

上記カウントをゲットされた方は、お手数ですがお知らせ下さいますよう
お願いします。

涼しい朝

2005-08-16 11:33:31 | 矢田だより
久しぶりの涼しい朝です。
いつものコース(矢田寺~松尾山~矢田山)を歩きました。


矢田山展望台の近く、大きなサクラの木の下にあるベンチ
に腰を下ろすと、汗で濡れたTシャツに吹きつける風が
寒いくらいでした。


ウバユリは枯れ、深紅のミズヒキや、キンミズヒキが咲き
始めました。


弘法井戸の沸き水は、いつにも増して冷たく感じました。
タオルを濡らして拭うと、身体が軽くなるような気持ちよさ。
少しずつ少しずつ秋の足音が近づいています。

こどもの森から

2005-08-15 10:36:19 | 矢田だより
矢田山に登りました。
今朝は出発が少し遅く、5時55分に大和民俗公園前を出発して峠池へ。
この道にはナス畑が多く、農家の人たちは朝から収穫に忙しい様子です。
池から急坂を矢田山見晴らし所に登りました。(6時55分~7時5分)
今朝は風があって涼しかったのですが、一面の雲の海で何も見えません。
小笹ノ辻から「こども交流館」を通って帰りました。8時10分帰着


ヤブミョウガが黒い実を付け始めました。


カラスウリも、もうすぐ真っ赤に色づくことでしょう。

過去の今日(XXXX.08.14)

2005-08-14 16:42:02 | 山日記

** 46年前(1959) ** 穂高岳<♂24>
大学の同級生と4人で、初めての槍・穂高へ。12日、激しい雨の中、槍沢を
下りましたが、あきらめられず涸沢入り。
前日(13日)は台風が北アを縦断。一日中、涸沢小屋で沈殿。
この日は快晴になり、ザイテングラードから奥穂に登り、前穂を経て岳沢を
下りました。
上高地からのバスは何カ所か路線が寸断していて、その間は徒歩連絡でした。


** 42年前(1963) ** 薬師岳(前列左端♂28)
勤務先の高校山岳部夏合宿。前の日、この年の7月にも通った有峰からの道
を登り、薬師峠で幕営。14日、頂上往復後、カベッケ原に下りました。
その後、槍までの縦走を予定していましたが、雨にたたられ雲の平、三俣蓮華、
を経て18 日、小池新道から新穂高へ下山しました。

** 41年前(1964) ** 教え子たちと五竜小屋前で幕営していました
後立山縦走途中です。11日、平岩から入山。蓮華温泉~白馬岳~五竜岳~
鹿島槍~爺岳~扇沢出合 と5泊6日の合宿。当時の高校生は頑張ったものです。

** 35年前(1970) ** 蝶ヶ岳の稜線のテントで雨宿りしていました
リーダーをしていた社会人山岳会の15周年行事で槍ヶ岳集中登山を試みました。
東西南北と大滝~常念~大天井経由の5パーティ。穂先で落ち合う約束でした
が、またまた台風の襲来で失敗。
当時はケイタイがなくトランシーバーでしたが、弟のいる北鎌尾根隊との連絡が
取れず、はらはらしました。(結局、このパーティは台風の中、ビバーグして
槍に到達しました)

**29年前(1976) ** 子供達と大台が原にいました
近くの友人家族と雲一つない快晴の東大台を周遊したあと、大迫ダム近くの
吉野川畔にテントを張り、水遊び、バーベキューや花火を楽しみました。


** 27年前 (1978) ** 燕 岳
赤い帽子♀ペン(38)、左後ろ美穂(12)、右後ろ岳志(9)
上(大台ヶ原)の友人家族とは、毎年のように北アなどに一緒に登っていました。
この年は中房温泉から燕岳~常念岳~蝶ヶ岳と歩きました。
14日は燕山草で朝食後、山頂へ。槍から立山までの稜線をはじめ、富士山まで
見える大展望でした。こどもたちも、よく歩きました。

前回の「過去の今日」

一雨来そうな

2005-08-13 16:03:27 | 矢田だより


矢田丘陵を歩きました。
朝5時半、竹藪を抜ける頃は夜のような暗さです。
松尾山から矢田山に続く稜線にでても木陰は暗く
♀ペンの撮った写真は、背景がきれいに消えました。



矢田峠まで来たとき雨が落ちてきたので、弘法井戸
を通って下りました。
矢田寺境内近くのクリは、もうこんなに大きくなっています。
キツツキの大工さんが朝早くから仕事をしていました。



今朝も矢田丘陵を…

2005-08-12 14:59:26 | 矢田だより
途中で出会った千日山歩渉会のUさんと三人で歩きました。

矢田展望台横のいつもの休み場では、今朝も涼しい風が
吹き抜けていました。

「チョットコイ、チョットコイ」と騒がしい鳴き声…
少し先の木の下にコジュケイが一羽騒いでいました。


画像はイメージです

涼風・大台ヶ原

2005-08-10 18:07:24 | 山日記
涼を求めて大台ヶ原へ行きました。家を出てから2時間と少しで、
駐車場着。ひんやりしてTシャツでは、肌寒さを感じるほどでした。
朝ご飯を食べて、8時20分出発。


今日はいつもと逆回りで、シオカラ谷から大蛇へ。


まだ人も少なく、曇り空ながら展望もまずまずでした。


正木ヶ原。周遊路は去年よりも更に整備が進んでいます。
まるで公園のよう。


シカさんの数は、いつもより少ないようでした。


正木ヶ峰に来る頃から雲行きが怪しくなり、
日出ヶ岳山頂の展望台が見え隠れします。


山頂に着く頃には、遠くで鳴っていた雷が次第に近く
なったので長居は無用と写真を撮るとすぐに下りました。

駐車場着11時45分、ベンチで昼食をすませて
15時前に帰宅しました。暑さ知らずの爽快な半日でした。

早起きして…

2005-08-09 12:28:37 | 矢田だより
5時25分に矢田寺を発ちました。本堂前で日の出を拝み矢田山へ。


頂池への分岐にオニユリが咲いていました。

矢田山展望台で6時、直進して峠池へ下ります。
池の間を通って子供交流館の裏側から再び小笹ノ辻へ登り。


ヤブミョウガの花はそろそろ終わり。黒い実を付け始めています。


矢田山三角点の下にはウバユリが咲いていました。

弘法の井戸で汗を拭い寺に帰りました。
一周、2時間10分。涼しい間の快適な山歩きでした。

高野三山

2005-08-06 16:22:38 | 山日記
世界遺産である「紀伊山地の霊場」高野山は、明治まで女人禁制のお山でした。
高野七口といわれる七つの入り口には女人堂が建てられ、そこから先には女性
が入ることが許されませんでした。

弘法大師が永遠に生き続けている御廟を拝みたいと願う女性信者は、
奥の院を中心にして八葉蓮華を象る山々を巡る、女人道と呼ばれる道
を辿る他ありませんでした。

8月5日。女人道の一つ「高野三山」を巡るコースを17年ぶりに
歩きました。下界では38.4℃(大阪・豊中市)を記録した日です。


奥の院近くの「浄め橋」三山入口です。


林道から急坂を登って摩尼峠に出て、原生林の中を摩尼山山頂に。


緩やかな尾根道を辿って着いた、次の山頂、揚柳山。
三山の最高峰といっても、標高は僅か1008mです。



でも高野六木の原生林を、歴史の重みと霊気を感じながら歩くのは、
日頃の嫌なことも忘れて清々しい心地でした。


最後の山頂、転軸山です。山と山との間にはいくつかの峠がありました。
今は荒れ果てていますが、ここにも昔の歴史や生活の跡があります。
この山頂からは奥の院に下れますが、私たちは森林公園を抜けて
一の橋に向かい、河口慧海師の偉業を偲ぶ供養塔をたずねました。

河口慧海師供養塔

2005-08-05 18:25:08 | 山日記
毎日うだるような暑さ。
涼を求めて高野山へ行きました。今日の第一の目的は
河口慧海師の供養塔を拝むことです。

雑誌「サライ」で師の供養塔が一の橋近くにあることを
知って、高野三山を歩いた帰りに探しました。



参道から少し入ったところ、この石標の三つ先にあります。



「慧海」という大きな文字が刻まれています。



傍ら(最初の写真、正面奥こちら向き)に供養塔の由来が
記されています。(縦書きの原文を当用漢字に改めました)

「この塔は、我国最初のヒマラヤ踏破者、日本チベット学の始祖
在家仏教の首唱者である 雪山道人、河口慧海師の供養塔である
 師は慶応二年堺市に生まる。宇治黄檗山にて一切蔵経を読誦し、
仏典の正解は原典のチベット訳に依るべきを悟り、明治三三年、
印度よりネパールに入り、単身ヒマラヤの険を越え、鎖国の秘境
チベットに潜入す。セラ大学に学び、法王の知遇を受け、帰国する
際多くのチベット蔵経を将来す。後再びチベットに入り、
チベット蔵経、梵語蔵経、並びに仏像、仏具、博物標本等を得て
帰国す。これらは東京大学などに所蔵されている。
 師は持戒堅固、肉食妻帯を退く。諸大学にチベット学を講じ、
仏教宣揚会を設立、在家仏教により正真の仏教を説く。梵蔵仏典
の和讃、西蔵文典、在家仏教、正真仏教、西蔵旅行記等の著あり。
戦禍国中に及ぶも、蔵和辞典の編纂に努む。昭和弐拾年二月、
東京都にて円寂す。  
          昭和五五年供養塔を建つ        」