庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

文明的

2011-02-17 22:00:00 | 政治
日本でも有数の保守王国と言われるこの愛媛県に、どうしてこれほどリベラルな匂いのする愛媛新聞が普及しているのか、不思議な気もする。我が家の皆も、ずいぶん長い年月この新聞を眺めているが、中でも随論に類するコーナーには、加藤周一や山折哲夫や養老猛・・・など、時に驚くほど意外な人物が登場して、私を大いに喜ばせる。110217e-gennrons1024pix200kb.jpg

今回は入江昭先生だ。少しでも国際問題に興味を持つ者で彼の名前を知らない人はいないだろう。私もリベラルな国際学者として名前くらいは覚えていたが、未だに彼の著作をまともに読んだことはない。しかし、今日の「論壇」の2000字ほどの小論を読んでいると、その見識の広さと深さは充分に推して知ることができ、読後感を圧縮すると、「やはりそうか^^!」という感慨の一言だ。

彼は冒頭、バートランド・ラッセルの文明観を提示しながら「国家」の非文明性を論じ、間に少し国連など国際機関の使命を挟んでから、今後の国際社会における文化的文明論に触れ、「太平洋文明」に期待を寄せて論を閉じている。

私がこの小論に共鳴する理由の一つは、たまたま現在、私もラッセルの著作の幾つかを再読・熟読している最中であるということもある。そして、文明史と呼ばれることの多い人類の歴史が、小さく閉じた世界から、より広大で開かれた世界に向かって着実に進行していることも、否定しようのない事実だからである。

ちなみにラッセルは、

 "Do not fear to be eccentric in opinion, for every opinion now accepted was once eccentric.”

「風変わりな意見を持つことを恐れるな。現在受け入れられている意見の全ては、かつて風変わりだったのだから」・・とか

"Men are born ignorant, not stupid. They are made stupid by education.”

「人は無知に生まれるが、愚かに生まれるわけではない。人を愚かにするのは教育である」

とか言ったりする人物である。(全て寛太郎の拙訳)




有難迷惑(2)

2011-02-17 11:10:00 | 海と風
「有難迷惑」とからめて、「シーマン・シップ」について少し考えてみる。 

地上には彼の国で古くから「ジェントルマン・シップ」があり、時代の変遷に従って多少とも意味合いが変化しながら、近代以降は概(おおむ)ね「品格があって礼儀正しく、相手の立場を尊重する」ことを規範とする。

空には「エアマン・シップ」があり、航空の歴史が始まってからできた言葉だからそう古いものではない。「ジェントルマン・・・」よりずっと「自由」の薫りが強く、20世紀初頭生まれの動力飛行機が第一次世界大戦で戦争の具(愚)になった頃に生まれ、1920年代のバーンストーミングの時代にかけて熟成されたものだろう。

バーンストーミングといえば、たちまち連想するのが複葉機だ。ヨーロッパ戦線に投入するために米国で量産された複葉機の一種が大量に民間に払い下げられ、大空のロマンと自由を求める多くの人たちの夢を現実のものにした。「翼よあれがパリの灯だ!」で有名なチャールズ・リンドバーグなどもその一人だ。彼はやがて大西洋の単独横断飛行に成功して世界的英雄になった。後に婦人と共に太平洋の北方西回り航路を開拓しながら日本にも滞在している。 

アメリカという大陸はまだ広大な自由の許容量を有している。毎年春に行われるフロリダの航空ショーの会場の一角では、中には自宅の庭から飛んで来たウルトラライトの数々や、真っ赤に輝く複葉機の翼にハンモックを引っ鰍ッて昼寝している青年を見かけたりして、私は嬉しかった。だんだん狭苦しくなるばかりの世界の一角で、あの夢のような時代の自由の気風に出会ったような気がしたからだ。この辺りの話を始めるとまた脱線して長くなるのでまたの機会にしよう。 

さて、「シーマン・シップ」なんて言葉はもう死語になったのだろうか・・・近頃、目にすることは滅多にない。昔もそうたびたび耳にした訳ではないが、私がウィンドサーフィンに熱中していた頃は、海で風読みをする人々も当然心得ている常識のようなものだったと思う。その意味合いは、やはり「ジェントルマン・シップ」を踏襲してはいるが、「相手の立場を尊重する」から「弱い人や困っている人を助ける」、つまりは「思いやり」の精神に多少シフトしたものと理解している。 

言葉の生死はともかく、その精神は、同じ海で生きる各種の「船乗り」や「漁師」や、時にはプレジャーボートなどを楽しむ人たちの中にも今なお厳然と生きていて、私も何度かその「思いやり」の現場に両方の立場で遭遇している。この数年では、カイトサーフィンに関係して、通りがかった漁師の方が声をかけてくれたり、近くの水上バイクには3回ほど乗せてもらったり岸まで引っ張ってもらったことがある。前にも書いたように、私にとっては必要性のない助けではあるが、こういう種類のシーマン・シップの発露は、ただ「有り難いこと」で、その行為や好意を無にするのは返って礼に失するだろう。 

その純粋な親切に喜んで応える私の行為を、何を思ったか「(あなたのしたことを)どう思うか?」などと詰問する人間もいた。その後、「みんな心配している・・・」などと、まことに底の浅い理由付けをしようとした。これなどはとりあえず不愉快で迷惑な話だが、これから彼(彼ら)も、もう少し広い世界を知り自然の妙を知るに至れば、自己の未熟さ加減に気が付く時が来るだろう。人間は誰しも、「間違いを繰り返しながら成長する動物」である。