"There can be no very black melancholy to him who lives in the midst of Nature and has his senses still. There was never yet such a storm but it was AEolian music to a healthy and innocent ear. Nothing can rightly compel a simple and brave man to a vulgar sadness. While I enjoy the friendship of the seasons I trust that nothing can make life a burden to me."
「自然」のまっただ中で暮らし、自己の感覚器官を静かに保った人間は、ひどい憂鬱症に陥ることなどあり得ない。本来、健康で純粋な耳には、どんな嵐も風の神に創られた音楽としか聞こえなかったのだ。単純で勇気ある人間は、つまらぬ悲哀に陥ったりはしない。私が四季との友人関係を楽しんでいるかぎり、何が起こっても、それが私の人生の重荷になるということはないと思う。
辞書的に「自然」とは「山、川、海、草木、動物、雨、風など、人の作為によらずに存在するものや現象であり、すこしも人為の加わらないこと」とあり、わたし的には自然科学的な「宇宙」や仏教用語の「一切法界」「三千大千世界」などの概念にまで至る。
だから、私が「自然」とか「大自然」という言葉を使うとき、人間や社会や国家や文明などと対比させることが多いにしても、これらは本来、対立関係ではなく包摂関係にある。つまり自然世界の中に人間世界があるのであって、その逆ではない。どんなに文明が発達して人類の活動範囲が広がっても、人間が作った世界が広大無辺な自然世界を超えることは決してないだろう。
そして、多くの動物たちと同様、どんな人間も親のもとに生まれ育ち、家族やより広い社会的な生物として生きることになるが、同時に常に自然的な存在であることから離れることはない。
今、多くの人工製品が並んだ部屋の一隅で、典型的な文明の利器に向かいながらこれを書いているのだが、この部屋の中にも外にも、ほとんど億年の昔からその成分を変えない空気という自然がある。窓の外には夜空の大気の流れがあり、その上空には無数の星がまたたいているだろう。
にもかかわらず、ある程度意識して、人間が作り出したもろもろの事物から距離を置くことなしに、その偉大なこと驚異的としか言いようがない自然世界を感じ取ることは容易ではない・・・という事実は悲しい現実である。
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今日の粟井は春らしい実に爽やかな南西風。潮時も良く、15??でジャスト。初心に帰ったような気分で風と波の動きを味わう。
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