庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

徳は孤ならず ソロー

2012-05-10 22:04:00 | 拾い読み

We are the subjects of an experiment which is not a little interesting to me. Can we not do without the society of our gossips a little while under these circumstances...have our own thoughts to cheer us? Confusius says truly. "Virture does not remain as an abandoned orphan; it must of necessity have neighbors.

「だれでも、私が少なからず興味を抱いているある実験の被験者になることができる。こうした状況において、しばらくのあいだ、仲間や他人のうわさ話に興じるのを止め、自分自身の思想に興じよう、という実験である。孔子がいみじくも言っているではないか。「徳は孤ならず。必ず隣あり(孤独の徳を備えた人間は孤立することはない、必ず理解者や道を共にする者が現れる)と。」 

Henry_David_Thoreaus1024pix100kb.jpg実際、ソローは決して頑固な人間嫌いなどではなく、彼の掘っ立て小屋には、時に数十人の訪問客があった。また、『市民的不服従』の思想は、ガンジーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動に影響を与え、『森の生活』は後に生まれる多くのナチュラリストを啓発した。私もその一人かもしれない。

ソローの『森の生活』を読み返していたら、いくらか唐突に論語の一節が出てきた。19世紀の彼が紀元前の人物の言行録を読んでいたとしても何も不思議なことではないが、その自然観が中国古典思想(東洋思想)にも深く影響を受けていたことをうかがわせるに充分で面白いと思った。彼は孔子の論語のみならず、老子も荘子も読み込んでいたに違いない。

論語にも老子にも荘子にも、キリスト教的「神」などは登場しない。私のいいかげんな理解によれば、老荘の中心概念は「天」と「道」であり、今流に解釈すれば、「天」は「大自然」、「道」は「大自然の根本法則」と言いかえて大きな支障を生じない。

だた、論語の中心には「仁」という、人と人との間を律する社会的な概念、つまり道徳律がデンと座っている。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(人格者は周囲の人々と調和はするが、自己の独立を失って付和雷同することはない。未熟者はその逆である。)」などは、私の座右の銘の一つになって久しい。Walden_Thoreau.jpg

私は初めてこの一文に触れたとき、昔の中国には見事なことを見事に表現する人物がいたものだ・・・と感動したのだが、たぶんソローもこの一節を目にして大きく頷(うな)づいたに違いない。生まれも育ちも、元より個性も異とする人と人とが、ほんとうに気持ち良く調和して付き合うこと自体が容易なことではない上に、「同じない」ためには、屹立(きつりつ)した個人としての自覚、つまり近代西洋の個人主義の精髄とでもいうべきものが必須となるからである。

ついでに、多くの現代人の共通する悩みである「人間関係」について、荘子には「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交(まじ)わりは甘きこと醴(れい・甘酒)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故(ゆえ)無くして以て合う者は、則(すなわ)ち故無くして以て離る。」と説く。

 つまり、「君子の交わりは淡くて水のようであり、小人の交わりは甘くて甘酒のようなものだ。君子の交わりは淡いので親しみ、小人の交わりは甘いので絶えてしまう。理由がなくて結びつく者は、理由がなく離れてしまうのだ」・・・と子桑戸が孔子に説く場面が出てきて、これも面白いと思う。
  


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする