katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイ教室

2021-12-17 23:24:24 | モザイクタイル教室

今日はキウイ教室。先日のサークルの続きの寅の絵馬。こう言う小物の作品って、どうしても可愛いぃって評価で終わりがちなんだけれど、実はそんな事は無いのね。実はその可愛さの裏側・・・って話なのね。

ついつい大作だと、上手いとか凄いって言いがちだけど、可愛いって表現は少なかったりする。それは見た目の大きさでの迫力についつい押されてしまうからだと思うんだけれど、その逆で小さいと可愛いって事で落ち着いてしまうが、例えば、

大作なんかを作っている人が作る小物って、小物であろうが上手くなった人の作品なんで、切る張るって技術は何も変わらないのね。例えばクラッシックを弾ける人が童謡だと可愛いだけか?とか、コース料理を作る人のきんぴらって?

きっとどちらも腕は変わらないと思うのね。けれど問題は、それで上手さを判断出来るかどうか?なのね。勿論、演奏している人や料理人を見ながら・・・なら、上手い人がやっているから、上手いに違いないって見た目で判断は出来るだろうが、

五感で、目隠しして聴覚のみだとか、目隠しして味覚のみで判るか?となると、結構優れていないと判断は難しいのね。ただ、凄いもの、大作って言う場合、自分には出来ない・・・って思わせる事が出来ると、人は凄いとか上手いって評価に

繋がったりするのね。じゃそれを判断する時ってどんな事で判断するか?となると、俺は音楽も料理でもプロでも無いし、上手くも無いが、例えば音楽なら、リズムに音が合っているかどうか?みたいな事は誰にでも判るし、ミスタッチは判る。

昭和の時代に、ピアノの音が漏れていて、ゆっくり弾いていたり、あっ音外した・・みたいな事を経験した事無いかな?ってあんな感じだったり、大人になってカラオケなんて時、安全地帯の熱視線のように、ブレイクした後の、抱きしめてって、

歌詞をタイミングが取れずに、だ、だきぃしぃめぇてぇ・・・になったりすれば、明らかに失敗って言うのは判りやすい。それがフィギュアで着地のバランスが崩れたみたいな話だし、フライを落としそうになった野球選手とかってね。

これが逆に凄いって言わせるようなプレーって、ソロを前に出て来て、激しく演奏を終えると、拍手は起こるし、音楽が突然止まって、アカペラを歌い切るなんて事になると、やはり拍手は起こる。フィギュアなら回数の多い回転を連続で

決めた後なんかも同じだし、ダイビングキャッチみたいにユニフォームが汚れるようなプレーも同様なのね。では料理となると・・・味なんて味覚で美味しいなんて事になると、それが出汁なのか?味付けなのか?は判らないけれど、美味しい

って言わせる事が出来る味覚だし、見た目の美しさは視覚としての美だし、手打ちそばだったりすると、均等に切ってある事が、まるで機械みたいな・・・実はここなのね。人が切ったと思えない・・・ここも技術評価の1つだったりする。

こんな事を踏まえて見ると、一番判りやすいのは、水色の部分の花。丸が綺麗に揃っている。そうかと思うと、輪郭部分がキチンと木に沿って入れられている。それによってキチンと黄色の体の線がハッキリするのね。

こうしたテクニックが要所要所にあるのね。ただテクニックって言うのは、判りやすい目安みたいなものだと思うのね。しかもそれらの全ては、相当な秀でる事をしないと、達者な人なら誰もが真似を出来てしまうようなものなのね。

つまりある程度の技術になったら、どれだけ自分らしい素敵なものが作れるか?これがオリジナルの原点だと思うのね。その時に、いきなりオリジナルから入るも良しだし、最初は真似からって言うのなら、楽譜、レシピ、図面・・・ありきで、

始めるも良し。ただ大抵ピアノのバイエルで辞めて行く事が多いのは、基本って反復練習だから詰まんないものなのね。だって普通はJポップとか弾きたいんだろうし・・・それなのに、基本はバイエルって・・・。

だから俺んとこは、じゃ好きなモチーフで始めたら?って事だったりするんだけれど、実はどっちから始めても一緒なのね。例えば基本から始めるって言うのは、物真似からスタート。楽譜やレシピ、図面の通り・・・ってね。

つまりそれは何を意味するか?となると、実は何も考えなくて良いって事になるのね。ただ弾く、ただ図って入れる、ただ組み立てる・・・のただの繰り返し。それによって道具に慣れされるの反復なのね。しかしながら、真似だから、何も

考えないスタイル。言われた通りのね。だから次はどうするんですか?って質問の繰り返しになる。ただここで終わるのなら、それまでなんだけれど、

実は真似側にも、秘密があって、ただの真似って言うのは、目に見えるものだけを真似るのね。だから誰でも一緒なんだけれど、その真似を超越する人って言うのは、歌詞の意味を理解すると、その歌詞のイメージに沿った演奏になる。

例えば、楽譜にはドレミファ・・・って記載されているから、その通りに演奏する。所が、その下に歌詞があるのを踏まえたりすると、単純にすべての音が均一では無く、ミだけ弱くしたりして、歌詞の持つ意味すらも演奏したりする。

そうする事によって、楽器なのに話し掛けて来るような・・・とか、泣きのギターとか、歌なのに語り掛けられるような・・・とか、単に楽譜を弾いているんじゃ無かったりするのね。だから凄くとか、上手く聞こえるのね。

ただこう言うのは、バンド位の形態の話で、楽団的になると、みんなで・・・なんで、輪を乱すから、みんなと一緒、個性は殺せになるんだろうけれど。話は戻して、逆にいきなりの自由は、その技術は無い癖に感性だけは優れている。

そんな人は、いきなりボールを打ち返したり、絵を描いちゃったり、絶対音感だったり、持って生まれた才能なんてもんがあったりもする。つまりいきなりオリジナル感満載なのね。でもすべてに技術や基本が無いから、理屈が判らない。

でも感性だけは素晴らしい。何しろ最初から考える、構築する事に長けている。こんな人に個性は殺して基本だよ・・・ではやりたくなくなるのね。だから好きな曲を1曲マスターする。出来た結果を残す。それが喜びに繋がるなら、また・・・がある。

そしてまたがあれば、またがある。そのまたの繰り返しの道中につまづけば、基本が重要な事に気が付く。そしたら基本をやれば良いし、逆に基本ばかりを繰り返すと、自分で考えるって行為をしなくて済む。しかも技術は身に付くから、

楽譜やレシピ、図面通りにスイスイ出来ちゃったりする。でもお好きに・・・が苦手になる。そこまで来たら、是非その腕を持ってして、自分で考えて・・・をやって見ると、つまづく事になる。何せ初めての事だから。

どちらから歩んで行っても、結局続けた人は出会う事になるのね。進んだ道が違うだけでね。って説明が長くなっちゃったけど、こう言う小物の作品を見る時にね、いつもこんな風に見たりするのね。勿論、俺は・・・だからね。

例えば俺もこの下地で作ったとする。2つ並べて票を取る。当然先生なら圧倒的な差を付けられた方が良いだろうが、恐らく互角か、よもすれば負けるだろうなぁ・・・って思ったりすると、負けたんなら認定じゃない?先生がね・・・。

じゃ絵馬職人に認定。こうした判断をして行くと、キウイ位の実力では、4、50cm位までの作品では、完全に勝てるとは言い切れない。つまりテーブル以上の大きさで勝負しないと・・・この人の実力はそんな感じって判断をする。

ではそんな人をどう表すか?となると、テーブルの大きさをプロの人達がどの位作っているか?となった時、世の中の作家や先生がどの位いるか?となって、同じように比較した時、圧勝出来なかったとしたら?それこそがプロ顔負けって事。

勿論、腕がね。技術がね。プロとしてって言うと、売れないとプロではやって行けないし、技術だけの問題では無いから、営業や宣伝、見栄え等の、戦略的なものも必要になるからね。ただ腕だけ比べれば、そうなる。

そんな人の小物作品って見れば、とても可愛いぃ・・・なんて表現は出来ないのね。むしろおっかない・・・なのね。何せ、見た感じの小さく可愛いとは違って、内容はそんなにこだわるのかよっ・・・なのだから。

だから先日の高洲のサークルのキョンキョンの絵馬も、似たような匂いのした作品だったのね。確かに技術はまだまだだったけど、そんな匂いがする仕上がりだったのね。今回は絵馬って言う時期に間に合わせないとならない作品だったが、

これをコンスタントに同じデザインを作らないコースターを、毎月1枚ずつ自宅で作るような事をして行くと、オリジナルの練習にもなるし、切る張るの練習にもなるのね。そんな教室の後は、明日のdiybaseの下地の仕上げ・・・。

間に合ったのね。しかし、全員3人共に違う下地って・・・結構豪華なのね。


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あれこれ下地彫り

2021-12-17 07:39:48 | 出張教室

今日は急きょ母の眼科に送迎する事になったが、何しろ色々と下地が重なっていて、終わらせないとならず、戻ってからはしばらく振りに遅くまでコーナン。まずは昨日の1回彫りを完成させないとならないのと、コープみらいの埼玉さんの下地。

正直、色々考えたが昨日は断念した・・・しかも今日は急きょ送迎・・・この先延ばした所で、良いアイデアが浮かぶとは限らない・・・って追い込まれ感はあったんだけれど、こう言う時って良く思い出されるのはM-1のような話なのね・・・

お笑いの大会なんだけれど、良くあると思うのはこんな話・・・キャリアを重ねた若手でもベテランでも無いような人達が、ラストチャンスに掛ける・・・そんな話。相方にこれで辞めようと思う・・・なんて話を切り出され、もう少しって

引き留めるも、家族なんかを引き合いに出されたりして、それじゃ最後に・・・と言うような展開。普通は何も起こらずにおしまい・・・って言うモノだけれど、例えばこんな人達は、劇場に上がっても何と無くファンもいたりして、萎縮する

先輩って言うのは明らかに有名な人達で、売れない側・・・つまり二軍でのキャリア選手的な扱い。だから二軍の試合では、新人を下に見て飲まれる事無く、萎縮させる事も出来たりすると、相手にプレッシャーをも掛けられる。

そこで結果が出て、昇格となるが、そこは海千山千の連中がごまんといて、今度は逆にプレッシャーを掛けられる展開になる。しかも数少ないチャンスをものにしようとするけれど、空回りなんて事になると、結果を残せず爪痕も残せず・・・

こんな事を数年やれば、新しい人達に抜かれて行く。そんな中のラストチャンス・・・どんな気持ち?そりゃやるしか無いのはいつも通りなんだけれど、気迫が違うのね。そうすると同じネタでも、声も張るし、熱量も変わって来る。

しかも時より呼ばれた時は、ネタらしい事は見せられず、ちょっとした絡みしか無いだろうし、しかも緊張の中。勿論、そんな舞台で緊張しない事は無いが、何しろラスト・・・全力でやろうって誓っているはず。

更に演者側で無く、見る側としては、売れていない芸人のネタなんて、恐らく初めて見るもの。つまり新鮮なのね。しかも必死感も伝わって来る・・・そりゃラストなのだから。それが合致した時、今までとは違う結果に繋がった・・・

こんなのはスポーツだって一緒。その上、対人として先輩からも圧が掛かるのだから、同じベンチに座って対等なんて萎縮すれば出来る訳も無いし、嫌がらせなんてのも無い訳が無い。常に勝ち取るって事はそう言うもんだったりする。

とか、とある演歌歌手が、頑張って来たけれど30歳・・・女として生きる道もあるんじゃないか?って周囲の人達からも言われて、今年が最後・・・これもまた同じような展開。こんな人が言うセリフは、最後だから楽しもう・・・なんて事があったりする。

ここが難しい所で、お笑いって言うのは、笑うって文字通り、ふざけた感じにも思える。だからこそ必死感過ぎると、笑えなくなるし、逆にふざけ過ぎると学芸会チックにもなる。でもこなれた感はもっと悪い。二軍のこなれた感を一軍で披露ってね。

どう考えても結果が出るとは思えない。ただネタの場合は、何度も何度も色んな所で掛けて来た。ただこなれた感が笑いを誘わないんだろうね。つまりここに緊張の必死感・・・ラストだからって言う、今までにないものが乗っかって、更に

テレビの大舞台でのネタの披露だから、知らない人が新鮮で笑った・・・こうなれば、実力が開花しても不思議じゃ無いのね。でも女性演歌歌手の場合だと、きっと必死のキャンペーン周りを毎日やっていたと思うのね。

きっとまた来た・・・なんて事を何年も。歌だって下手な訳も無い。空振りすれば、今度こそ・・・なんて必死になる。けど、その必死さ加減って、もはやドブ板選挙的になるでしょ?・・・場合に寄っては可哀想だなんてね。

そんな時にラストイヤーとなった時、楽しもう・・・って思ったらしいのね。さっきのお笑いは必死さ加減、今度は楽しもう・・・逆なのね。ただ必死さは取れた分、笑顔で楽しそう・・・もし演歌を歌い終わったりしたMCの時に、

必死のままと、それでは皆さん・・・って笑顔で楽しそうだとしたら?頑張ってね・・・のお客さん側は、明らかに態度は変わると思うのね。つまり両者共に、売れるだけの実力は持っていた上で、足りなかったものはそんな事だったりしたら?

こんな事を常に思うと、必死に考えはするが、どんな提案する?って事になると、昨日もずっと考えていたのに・・・そんな中、昨日のサークルで頂いたお菓子の中にナプキンが入っていて、それがドーナツの絵だったのね。

それをかぐやに言うと、以前私が言ったんですけど・・・また聞いて無いんですね・・・って言うのね。そこでこんな話をしたのね。仮にそうだったとしたら、全部かぐやが考えて、かぐやが先頭切れば良いと思うのね。

クリエーターとしては、それを自力で考えないとならず、だからこそオリジナルなのね。こう言うと、じゃ何言っても無駄じゃ無いですか?ってのも良く聞く話で・・・。違うのね、人の脳ってのはそんなに簡単なものじゃ無いのね。

俺はこう思うのね。仮にかぐやが言ったとしても、その時は必死で見つけている最中。ここはアイデアが欲しいんでは無くて、俺が女の人に男で提案しないとならないから、どんなものが必要?って部分であって、デザインの話じゃ無いのね。

だからそこはスルーしちゃうんだろうね。でもね、聞いたって事は俺には残らないけれど、脳には残っているのね。何しろ一緒に考えてくれた人の話・・・そんな事を無視するはずは無い。大事なんじゃ無いのかな?とすり込まれる。

そう無意識に。ただ意識的にスルーした分、覚えていない。そして自分だけで考えて行くんだけれど、時間も無くなるし、今日のようにイレギュラーな事が益々追い込まれる事になる。その切羽詰まった感じの時に、見逃さなかった・・・

ナプキンの紙・・・カフェトレイに置くものとしてのドーナツ。以前、コーナンの社員さんに、coffeeと彫ろうとしたら、cafeじゃないか?って言われた時に、なるほどね・・・と変更した感じで、よりイメージにあったものとしては、そっち

かな・・・とも思ったのね。こんな事をたった一言で変更するのだから、かぐやの話を聞かないはずも無く、ただ必死に考えて、追い込まれた時に、ナプキンの紙を見て思い出すんだろうね・・・脳が記憶の引き出しの中を。

つまり自分で考えた・・・って言う行為は続けた上で、ひらめき、気付きみたいな行為は、発見的なモノであって、良く言う事だけど、発見した・・・なんて学者さんってこんな事をしていたんだろうな・・・ってのは想像出来るのね。

毎日実験の繰り返し。こうしたらどうかな?違った・・・じゃこうしたら?って繰り返す。常識の元ね。当然学校を出て頭が良いから、最高級の常識を持っているはず。それを持ってしての、非常識って言うのが実験だと思うのね。

でも最高級の常識を持って・・・これが邪魔をする。だって常識を持っているから。新しいものって言うのは、常に有り得ない事なんだから。そんな中、何千回もの失敗をし続ける。ありとあらゆる失敗を知っている。

恐らくそんな時に、有り得ない失敗をするんじゃ無いのかな?何か容器を間違えたとか、諦めかけた失敗を覗いたとか、非常識な事をしたと思うのね・・・常識では廃棄なものだったりするものを・・・。

そこに気が付いた人だと思うのね。今までの失敗事例に無い事に・・・。これ何だ?って。ひらめきに気付きってこんなセットは誰にでもある事なんだけれど、それを偶然に何度も出来たら天才なんだろうが、俺はそれを仕組みとして考える。

まぁ確率を上げるって事になると、偶然よりも必然だし、必然にするにはそう言う環境や状況を見逃さなければ、こんな展開の時に、ナプキン1枚でも見逃さない五感が必要なのね。昔、素浪人なら、寝ていても物音1つで戦う状況になれた。

それは常に五感が働いていたからであって、安心安全に身を置くと、五感は研ぎ澄まされる事は無くなる。ある意味、危機管理能力だから。でもそればかりでは、休まる事は無いから、接する側は疲れる。逆に緩い感じは安心感に繋がる。

良い事と悪い事は常に背中合わせ。そんなこんなでドーナツの下地は、こんな中ほぼ完成。他のは・・・

まぁ凄いのは、今diybaseはリピーターさんが3人の予定なんだけれど、3人共に違う下地なのね。しかもサンプルと同じものが1つも無し・・・何とも豪華な事になったのね。

そんなこんなでコーナンからの帰りに違うホームセンターに寄って、コーナンに無いものを買って、トラの絵馬や他の下地のオイル塗り。もう1回塗らないとダメかなぁ・・・。まぁ何とかかんとか形にはなったのね。


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