今日はキウイ教室。先日のサークルの続きの寅の絵馬。こう言う小物の作品って、どうしても可愛いぃって評価で終わりがちなんだけれど、実はそんな事は無いのね。実はその可愛さの裏側・・・って話なのね。
ついつい大作だと、上手いとか凄いって言いがちだけど、可愛いって表現は少なかったりする。それは見た目の大きさでの迫力についつい押されてしまうからだと思うんだけれど、その逆で小さいと可愛いって事で落ち着いてしまうが、例えば、
大作なんかを作っている人が作る小物って、小物であろうが上手くなった人の作品なんで、切る張るって技術は何も変わらないのね。例えばクラッシックを弾ける人が童謡だと可愛いだけか?とか、コース料理を作る人のきんぴらって?
きっとどちらも腕は変わらないと思うのね。けれど問題は、それで上手さを判断出来るかどうか?なのね。勿論、演奏している人や料理人を見ながら・・・なら、上手い人がやっているから、上手いに違いないって見た目で判断は出来るだろうが、
五感で、目隠しして聴覚のみだとか、目隠しして味覚のみで判るか?となると、結構優れていないと判断は難しいのね。ただ、凄いもの、大作って言う場合、自分には出来ない・・・って思わせる事が出来ると、人は凄いとか上手いって評価に
繋がったりするのね。じゃそれを判断する時ってどんな事で判断するか?となると、俺は音楽も料理でもプロでも無いし、上手くも無いが、例えば音楽なら、リズムに音が合っているかどうか?みたいな事は誰にでも判るし、ミスタッチは判る。
昭和の時代に、ピアノの音が漏れていて、ゆっくり弾いていたり、あっ音外した・・みたいな事を経験した事無いかな?ってあんな感じだったり、大人になってカラオケなんて時、安全地帯の熱視線のように、ブレイクした後の、抱きしめてって、
歌詞をタイミングが取れずに、だ、だきぃしぃめぇてぇ・・・になったりすれば、明らかに失敗って言うのは判りやすい。それがフィギュアで着地のバランスが崩れたみたいな話だし、フライを落としそうになった野球選手とかってね。
これが逆に凄いって言わせるようなプレーって、ソロを前に出て来て、激しく演奏を終えると、拍手は起こるし、音楽が突然止まって、アカペラを歌い切るなんて事になると、やはり拍手は起こる。フィギュアなら回数の多い回転を連続で
決めた後なんかも同じだし、ダイビングキャッチみたいにユニフォームが汚れるようなプレーも同様なのね。では料理となると・・・味なんて味覚で美味しいなんて事になると、それが出汁なのか?味付けなのか?は判らないけれど、美味しい
って言わせる事が出来る味覚だし、見た目の美しさは視覚としての美だし、手打ちそばだったりすると、均等に切ってある事が、まるで機械みたいな・・・実はここなのね。人が切ったと思えない・・・ここも技術評価の1つだったりする。
こんな事を踏まえて見ると、一番判りやすいのは、水色の部分の花。丸が綺麗に揃っている。そうかと思うと、輪郭部分がキチンと木に沿って入れられている。それによってキチンと黄色の体の線がハッキリするのね。
こうしたテクニックが要所要所にあるのね。ただテクニックって言うのは、判りやすい目安みたいなものだと思うのね。しかもそれらの全ては、相当な秀でる事をしないと、達者な人なら誰もが真似を出来てしまうようなものなのね。
つまりある程度の技術になったら、どれだけ自分らしい素敵なものが作れるか?これがオリジナルの原点だと思うのね。その時に、いきなりオリジナルから入るも良しだし、最初は真似からって言うのなら、楽譜、レシピ、図面・・・ありきで、
始めるも良し。ただ大抵ピアノのバイエルで辞めて行く事が多いのは、基本って反復練習だから詰まんないものなのね。だって普通はJポップとか弾きたいんだろうし・・・それなのに、基本はバイエルって・・・。
だから俺んとこは、じゃ好きなモチーフで始めたら?って事だったりするんだけれど、実はどっちから始めても一緒なのね。例えば基本から始めるって言うのは、物真似からスタート。楽譜やレシピ、図面の通り・・・ってね。
つまりそれは何を意味するか?となると、実は何も考えなくて良いって事になるのね。ただ弾く、ただ図って入れる、ただ組み立てる・・・のただの繰り返し。それによって道具に慣れされるの反復なのね。しかしながら、真似だから、何も
考えないスタイル。言われた通りのね。だから次はどうするんですか?って質問の繰り返しになる。ただここで終わるのなら、それまでなんだけれど、
実は真似側にも、秘密があって、ただの真似って言うのは、目に見えるものだけを真似るのね。だから誰でも一緒なんだけれど、その真似を超越する人って言うのは、歌詞の意味を理解すると、その歌詞のイメージに沿った演奏になる。
例えば、楽譜にはドレミファ・・・って記載されているから、その通りに演奏する。所が、その下に歌詞があるのを踏まえたりすると、単純にすべての音が均一では無く、ミだけ弱くしたりして、歌詞の持つ意味すらも演奏したりする。
そうする事によって、楽器なのに話し掛けて来るような・・・とか、泣きのギターとか、歌なのに語り掛けられるような・・・とか、単に楽譜を弾いているんじゃ無かったりするのね。だから凄くとか、上手く聞こえるのね。
ただこう言うのは、バンド位の形態の話で、楽団的になると、みんなで・・・なんで、輪を乱すから、みんなと一緒、個性は殺せになるんだろうけれど。話は戻して、逆にいきなりの自由は、その技術は無い癖に感性だけは優れている。
そんな人は、いきなりボールを打ち返したり、絵を描いちゃったり、絶対音感だったり、持って生まれた才能なんてもんがあったりもする。つまりいきなりオリジナル感満載なのね。でもすべてに技術や基本が無いから、理屈が判らない。
でも感性だけは素晴らしい。何しろ最初から考える、構築する事に長けている。こんな人に個性は殺して基本だよ・・・ではやりたくなくなるのね。だから好きな曲を1曲マスターする。出来た結果を残す。それが喜びに繋がるなら、また・・・がある。
そしてまたがあれば、またがある。そのまたの繰り返しの道中につまづけば、基本が重要な事に気が付く。そしたら基本をやれば良いし、逆に基本ばかりを繰り返すと、自分で考えるって行為をしなくて済む。しかも技術は身に付くから、
楽譜やレシピ、図面通りにスイスイ出来ちゃったりする。でもお好きに・・・が苦手になる。そこまで来たら、是非その腕を持ってして、自分で考えて・・・をやって見ると、つまづく事になる。何せ初めての事だから。
どちらから歩んで行っても、結局続けた人は出会う事になるのね。進んだ道が違うだけでね。って説明が長くなっちゃったけど、こう言う小物の作品を見る時にね、いつもこんな風に見たりするのね。勿論、俺は・・・だからね。
例えば俺もこの下地で作ったとする。2つ並べて票を取る。当然先生なら圧倒的な差を付けられた方が良いだろうが、恐らく互角か、よもすれば負けるだろうなぁ・・・って思ったりすると、負けたんなら認定じゃない?先生がね・・・。
じゃ絵馬職人に認定。こうした判断をして行くと、キウイ位の実力では、4、50cm位までの作品では、完全に勝てるとは言い切れない。つまりテーブル以上の大きさで勝負しないと・・・この人の実力はそんな感じって判断をする。
ではそんな人をどう表すか?となると、テーブルの大きさをプロの人達がどの位作っているか?となった時、世の中の作家や先生がどの位いるか?となって、同じように比較した時、圧勝出来なかったとしたら?それこそがプロ顔負けって事。
勿論、腕がね。技術がね。プロとしてって言うと、売れないとプロではやって行けないし、技術だけの問題では無いから、営業や宣伝、見栄え等の、戦略的なものも必要になるからね。ただ腕だけ比べれば、そうなる。
そんな人の小物作品って見れば、とても可愛いぃ・・・なんて表現は出来ないのね。むしろおっかない・・・なのね。何せ、見た感じの小さく可愛いとは違って、内容はそんなにこだわるのかよっ・・・なのだから。
だから先日の高洲のサークルのキョンキョンの絵馬も、似たような匂いのした作品だったのね。確かに技術はまだまだだったけど、そんな匂いがする仕上がりだったのね。今回は絵馬って言う時期に間に合わせないとならない作品だったが、
これをコンスタントに同じデザインを作らないコースターを、毎月1枚ずつ自宅で作るような事をして行くと、オリジナルの練習にもなるし、切る張るの練習にもなるのね。そんな教室の後は、明日のdiybaseの下地の仕上げ・・・。
間に合ったのね。しかし、全員3人共に違う下地って・・・結構豪華なのね。