katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

りょうさんx2マス教室

2024-12-10 23:13:13 | モザイクタイル教室

今日はりょうさんが午前午後と2マス教室。それでは出勤って時に、問い合わせの電話が入って・・・危うく遅刻なんて事になりそうだったが、何とか送迎に

間に合って・・・そんなこんなで落ち着いてお教室が始まったと思ったら、大家さんから電話・・・アトリエにいないの?いるよ・・・今教室って言うと、

ちょっと下に降りて来て・・・って。何か俺やったかなぁ・・・って行くと、

70cmの肉厚ヒラメがドーン・・・あっ釣れたの?友達、大家さんのどっち?・・・俺・・・そうなのね、大家さん今日は釣れたのね。しかも中々のビックサイズ。すげー。

この大きさになると、旅荘の舟盛りでも珍しい大きさだと思うんだけれど・・・しかも刺し身じゃ無くて、生きたまま・・・生き物として好きだから、

パクパクしていると、さかなクンじゃ無いけれど、楽しいわ。本当ならさばく所も見たい所だったが、大家さんが釣ったってのも見れたし、この大きさで生きている・・・

すげーしか無かったのね。そんなこんなでお教室は、白いガラスタイルなんだけれど、月並みだけど、花もドレスもカチンコチンじゃ無くて、グネっ

って感じなのね・・・ヒラメも。この感じ方が大事なのね。ただ未熟な人にこの感じ方で切って・・・ではハードルが上がり過ぎ。ただ独りで来るのに慣れ

進み具合も良くなるとは限らないのに、2マス・・・この辺の覚悟なニュアンスは、進行具合ばかりとは限らず、時間が掛かっても質重視とも考えられるのね。

そうなると上手くなりたい・・・良いのが欲しい・・・と欲張りたくなる。ただここが大事な所で、上手くなりたい・・・ってどの位?とか、良いのが欲しい

・・・ってどのくらいって聞かれた事が無いと、その質問に答えられないし、答えても人それぞれ・・・なんて何でもかんでも曖昧な表現をすると上手くならないのね。

ではそれを説明するんだけれど、何でも同じだから要領だけね。まず悪意を持ってこのやり取りを学校名を入れて、上手くなりたいって事は良い学校に行きたい・・・

って変換をしたとする。だから上手くなりたい・・・を良い学校に行きたいとすると、良い学校ってどこ?って話なのね。人それぞれだから・・・と曖昧に

言われても、個人レッスンなんだから、気を使う必要は無いのね。しかも人それぞれなら、その表現では全く何も伝わらないのね。具体的に慶応とか早稲田とか、

東大、芸大ってキチンと明確にする事で、そうするにはどうすべきか?どうやれば現実に近づけるか?やり方、方法ときっかけになるようなやり取りが無いと、

漠然と曖昧にされれば、じゃこんな感じ・・・?って言う先生としての指針的な話が出来るのと、曖昧な表現で何となく良い感じに・・・一体どうしたいのか?

その曖昧な表現で何をどう目指すのか?・・・さっきのヒラメだって同じで、何でも良いから釣りたい・・・って言うのなら、その季節にいっぱいいる魚に

すれば、釣れる確率を上げられるし、良く釣れる情報で場所選び、そして潮の満潮や干潮なんて事を意識すれば、より確率を上げる事が出来るのね。

それを何処でも良いから入れる学校とか、何か上手くなりたいとか、何か釣りたい・・・これでは漠然としていて、一体どの位時間やお金が掛かるか?

想像が付かないのね。しかももっと言えば、お金も時間もいとわないって言えば、最高級を目指せるけれど、未熟な状況でマグロや高級車が最初から必要か?

となると、お金持ちならそんなスタートもあるが、逆に月に1回って中で、最高級を目指しても果てしなさに挫けちゃうと思うのね。それをりょうさんは、

回数を増やした事で、方針を少し変えたのね。どう変えたか?って言うのは、質と進み方って言うのは反比例してしまうもので、月に1回なら、切るのに慣れる

事を重視するから、進む事を7にして、質を3みたいな状況を進む事5、質も5って質を上げれば、当然もっと進まなくなるのね。でも今まで教えられなかった

事も教える事が出来るのね。じゃ何がどう変わるか?となると、例えば、蕎麦を切って・・・って時に、以前なら蕎麦、うどん、蕎麦、きしめん・・・となったら、

きしめんは切り直して・・・となったものが、うどんも切り直す事になるし、真っ直ぐなパーツの繰り返しが、カーブなラインとしてえぐるなんて事になる。

算数が数学になった感じなのね。ただこれが仮に月に1回では、次に来た時には、えっとーって忘れちゃう事が多くなるのね。でも1日6時間となると、

前半の3時間、疲れていない時間に難しい数学でも何とか付いて来られる。そして疲れた後半は手慣れた事、つまり算数に戻せば、えー6時間も・・・では無く

あっという間の時間だったりするのね。ただこんな目に見える指導って言うのは、技の部分であって、心技体って言うのは、心が一番最初に来るものなのね。

つまり心って部分を変えないと、何も始まらないのね。何しろりょうさんは自己肯定感が低いし、身の丈身の程って自分で決めちゃうし、でも上手くなりたい・・・。

こんな感じの人が、上手くなりたいと思うのに、自分なんて・・・きっと無理だと思うけれど、自分が納得すれば・・・でも・・・って物凄く複雑な心境に

なるでしょ?これでは、どうしたい?ってこんな繊細な感情を未熟な腕でどう表現する?って話になるのね。つまりこの複雑な心境をシンプルに判りやすくする。

まずここから。まず上手くなるって何?って具合に、自分が思い描く理想を決めるのね。ここが厄介で、自分で自分を決めるって良さげな表現なんだけれど、

それじゃ子供がメジャーリーガーになりたい・・・そう思うだけで、みんななれるのなら、苦労はしないで済むのね。違うのね、ほぼみんななれないのね。

なれる人は、人とは違う道を歩んだ人だけなのね。しかもみんなと一緒に楽しく・・・では、みんなと楽しくは出来ても、必ず甲乙丙丁は出るのね。

一緒に仲良く同じ先生で同じ教え方で、みんな同じ学校に行ける訳無いじゃん。それが普通。仲良く出来るのは気楽、気が楽なだけ。

そう言う点では、ウチはみんなが全員違うものだから、比較対象が無い分、人を真似たり、参考になるものは無いのね。良くも悪くもね。そんな中で、

趣味って言うくくりで楽しむのなら、そんなに難しく考える必要は無いものの、上手くなりたいって向上心は良い事だと思うのね。では何がどう上手く

見えるようになるか?となると、出来ない事が出来るようになる・・・とても判りやすいのね。鉛筆が持てた・・・いや持っただけで無く書けた。

いや書いただけで無くしっかりして来た。字っぽくなって来た、はみ出したりせずバランスも整って来た、お手本通りな字になっている、良いなぁそんな字を

書けて・・・って人に褒められる。人から先生になれば・・・とか、これ書いてくれないとか頼まれる。そして先生になる。趣味って一体どの辺?

こう言う具体化すると、めちゃ判りやすいでしょ?しかもそれって月1で出来そう?って話だし、それを習った事を自宅で復習反復したのが労作展の子達なのね。

話を戻して、良く良いものを見る・・・なんて表現があったりする。ここが大事で、みんながみんなルノアールとかゴッホって言うのなら、みんながそれ見て

上手くなるでしょ?そんな事は無いのね。流派みたいなもんで、自分がどんなものが好きか?になると好みってものがあるのね。じゃモザイクの好みを探せば

良いんじゃない?単純な話でね。その時にきちんと何の何処が好き・・・って傾向と対策があれば、自分なりの判断材料があるんだけれど、そりゃ無理でしょ?

だって未熟なんだから・・・そうなのね。こんな単純なら人は誰も困らないのね。実は人って小難しいのね。しかも欲張りはこうしたいって言うのをあれこれ持ってて、

しかもそこにお金があったり、コネがあれば、一流なんて人に教わる事も出来るんだろうね。でもウチに来る人はそんな事は無いだろうし・・・だから、

工夫しないとならないのね。例えば、料理が上手くなかったり、野球をろくすっぽ出来ない癖に評論だけは生意気にもするって人、いっぱいいるでしょ?

ほらやれもしないのに、いっちょ前に語る。これを語る人側で考えれば、好みを見つけるだろうが、語らない側だと、どうすれば良いか判らない感じね。

じゃ語らない側は本当にそうなのか?これもまた違うのね。ミッドフィルダーに守備型、攻撃型があるように、そこも分かれていたりするのね。

そうやってみんな違うから、教える側としては、その人を知ろうとしないと、はい、じゃみんな一緒にぃぃ・・・おてて繋いでになる。個人レッスンとはそうでは無いのね。

そしてりょうさんの目で生徒りょうさんを見た時に、不出来と思うみたいで・・・だからもしりょうさんの目が7で腕が2に見えていたとしたら?

見劣りするだろうね。ただこうして数字になれば5足りないのは判りやすい。でも普通は漠然ととか、何となくなのね。だから腕の向上ばかり目に付くようで・・・。

ただその目の判断正しい?となると、それとて漠然なのね。そこで提案なのは、棟梁ってどう見える?・・・同じkameyaさんで身近に見れる・・・すると、

凄い上手いって。じゃその人の目に頼れば良いじゃん。自分よりも上手く、良い目を持っていると思えるのだから、信憑性がある。だからアトリエでやったら、

感想を聞くと良い。棟梁にも感想は遠慮なく・・・と言ってあるから。そうすると、良くも悪くも客観的な感想を聞ける。だからルノアールやゴッホより

棟梁の目を信じて、棟梁みたいになりたい・・・ってこんなに身近に上手い人がいるのなら、そこを目指すと具体的で判りやすくなるのね。

そうすると、自分で自分にプレッシャーを掛けなくて済むし、それを意識すれば、次の機会に棟梁の作品を眺めるのでは無く、きっと自分とは違う事を

具体的に見つけるようになるはずなのね。良いものを良く見るって言うのは、名画とは限らないのね・・・。そうやって棟梁にも良い刺激になるだろうし、

その棟梁もここに至るまでに、何人かの弟子との相席で得た事があったはずなのね。それを今度は自分がその人側になる番になった・・・ただそれだけ。

これが伝承の仕組み。成立すれば上手くなって当然。当たり前過ぎるくらい当たり前の事だから。本当にこんなペースでやるのなら、上手くなるのは急激で

それも当たり前過ぎて普通な話・・・。楽しみなのね。

 

 


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