katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

金魚の壁画と両親お花見?

2023-03-20 00:25:18 | 休み?

昨日、さくらに引出しの補修を頼まれて、簡単な事なら・・・と引き受けたんで、今日はその補修から。ただそんなのやった事は無かったんだけれど、もしやって見て出来なかったら諦めてね・・・って保険を掛けてのチャレンジだったが、本当にヤバかったら、大家さんもいるし・・・。

相談すりゃ何とかなるだろうって気持ちで、やって見ると、昼には終わって、ちょっとした息抜きになったのね。そんなこんな時間の後は、また金魚の壁画なんだけれど、ずっと半分だけで考えていたんで、面倒ではあるけれど、2つ合わせて見たのね。ただ余りに大きいから、こうして出すと、

身動きが取れないのね。だから方向性と大雑把な下絵を描き込めば、また半分にするとして・・・一応、和風で水っぽい模様は入れる・・・って位は決めてあるんだけれど、その程度なのね。そうね、例えば図鑑だったとすると、趣旨は全体像を見せて、こんな生き物だよ・・・ってたった1枚の画像

で見せようとするから、全部同じ向きで、大きさを変えたりするのね。だから例えば魚図鑑だとしたら、みんな同じ向きで、もはやまな板の鯉状態で、死んでいるみたいになっていると思うのね。それを何かの挿絵チックになると、くじらはこんなに大きい・・・みたいに見開き全部にめいいっぱい、

泳いでいるシーンや、ジャンプしていたり、群れで泳いでいたり、いかに動いているか?みたいに、生態も踏まえた感じにも見えるようにしたり、図鑑とは変化して来るのね。それが童話の挿絵となると、ピンクのゾウだったり、羽が生えていたり、ファンタジーの世界なら有り得ない事になる。

こうした違いが色々あるんだけれど・・・一体どんな世界観で作りたいのか?って事になるのね・・・オリジナルなんだから、それを考えないとならないのね。んで、その時に大抵、俺の場合、家族の人数を取り入れたりするのね。そうね、先日のモンステラの玄関にしても、俺より年齢が上のご夫婦

で打ち合わせをしていたんだけれど、途中で旦那さんが、2人の意見がまとまらなくなるから、あいつの要望を聞いてやって・・・って言われた事から、下絵の段階で、2枚重ねようと思っていたのね。なるべく下の葉は大きめにしてね・・・。

旦那さんが背が高い方なんでね。スペースが狭い分、あれこれとは入れられないからね。では今回の場合は、旦那さんの趣味の金魚で、全てそこで飼育されている品種なのね。それと頼まれた時は4人家族だったが、5人になった・・・みたいな話で、金魚の数を合わせたりして・・・。

時間が経ってしまうと、そんな事も起きたりする。しかも、打ち合わせに色々問診をしたんで、家族の名前やなんかから、ゆかりのある事を広げて、その子供達や奥さんにも、これが自分・・・みたいに判るように、金魚のモチーフを使ってファンタジーな世界観で作ろうと思っていたのね。

その時に、旦那さんの名前に竜が付くんで、竜眼とか穂竜なんて、金魚の品種があるので、それを目にして、竜を描こうとしたのね。それを水に見立てて、4匹を守っているように・・・所が、丸い金魚は好きじゃない・・・って言うのと、ウチの品種で・・・って事なんで、却下になり、それなら

余計な事は要らないな・・・と数だけ合わせて、似ている・・・のみに徹しようとしたのね。つまりレシピ、図面、楽譜の方向ね。余計な考えは一切要らない。ひたすら徹する方向で。所が当然、バックがこうして多く残る事になる。じゃどうする?って事になると、既に却下をされているから、

当然消極的になるし、既にもう限界はとっくに超えている状況な時間の掛かり方。そうね、例えばブンブン振り回す、一発狙ってホームランとか、キーパーもゴール前で攻撃とか、捨て身の技を掛けに行くとか、もうそう言う体力は残っていない感じだと思って貰うと良いかな。

つまり、リスクは追わないから、どうしても勝ちに行くのでは無くて、後は引き分けでOKだから、無理せず攻撃せず、パスを回して時間潰し的に、余計な事はせずに、金魚が綺麗に見えれば良い・・・プラスになるように・・・では無くて、マイナスにならないように・・・の考え方になる。

何せ、まだ1匹半も残っている状況なのだから。はてさてどうすっかな?・・・って事なのね。まぁ古典的な和風の水の模様を使って、金魚の邪魔をしないように・・・動いている金魚の上乗せになる模様って感じに・・・まだしっくり来ないんで、それじゃ息抜きがてらに・・・と両親誘って花見。

って事に・・・ただ、朝の補修の乾きを見て、さくらの家に届ける道中に、靖国神社あたりだけ咲いてた・・・から、ただ届けるだけだと、さくらが気にするし、それじゃ退屈な老人の息抜きと、アイデアに行き詰まってる俺の息抜きと、お届けを合体すれば、わざわざじゃ無い訳で・・・。

これなら誰も苦にならないし、気を使う必要も無いのね。そんなこんなで、単純にさくらにお届けで、桜も見たし・・・それなら水に桜の模様は入れとくか・・・って話。一見馬鹿馬鹿しそうな話だけれど、どんな作家もこうした日常に落っこちている話を拾い上げているだけなのね。

後はそれをどう表現に加えるか?になるのね。ただ、水に桜の花びらが浮かんでいる・・・なんてのは、恋愛の歌で、愛してるとか、好きとかって言葉を使っているようなもので、いくらでもそんな歌も絵もあるのね。だからそのままなら単なる使い回し。何か工夫しないとね。

そうね、ただ例えば俳人とか、絵描きが、日本中回って旅の中で、創作して行くなんてのもあるが、あれはそれだけの資金や、帰る家があるような余裕がある人のやり方で、俺はそれをエリートって呼ぶのね。つまりその逆に生きる者としては、カトレアじゃ無くてたんぽぽみたいな話で・・・。

それを野村監督は日向の長島、王さんを向日葵と例え、自分を月見草と表現をしたのね。まぁそうなるわな。って事になると、芸術一家に生まれた訳じゃ無いし、学校も出ていないのだから、月見草側になる。勿論、成功者の野村さんと同じって訳では無く、そっち側の末端ね。

向日葵側じゃ無いって事ね。そうね、それもこれも同じ話で、健康な時は日々の暮らしの有り難さなんて考えもしないが、あれこれ失うと、あったことの有り難さを振り返る。振り返ると後悔する。これを先人から習ったんだけれど、それを感じないのか?感じるのか?みたいな話で・・・。

常に俺は、どっち側にいる?って思ったりするのね。これが簡単に出来るようになると、進級となると、今どっち側?みたいに、状況や環境で簡単に変わって来る訳で。例えば、遠慮が美徳みたいな感覚のみだと、そこに更に上乗せで、気を使うなんて人の場合、どうなるか?なんて考えて見ると、

遠慮するのが良い事とお考えだから、一番端っこにいようとするのね。確かに群れのルールなんか判らないから、転校生っぽくなるからね。その時に、容姿としてカッコいいとか、可愛いって言うと、人は見た目で判断をするから、凄くポイントがアップする。何もしなくても、向こうから人が

やって来るなんて事になる。では逆に自分から話そうとはしない場合、これが遠慮が美徳なら、挨拶にすら行けないなんて事になると、素敵な容姿も無く、愛想も無いから・・・と取られたり、東京から来たとか、地方から来たなんて事で、状況も変わったりもするのね。

俺も何度か出張の時に、東京から来た・・・って話になると、東京から・・・って事になったりしたのね。ただ逆に東京で、東京ですと名乗って、江戸川なんて、もはや千葉です・・・って感じで、状況や環境で大きく変わって来る。勿論、そんなの関係無いって性格なら、自分を押し通す、

フォアード的なスタイルで出来るだろうし、それが全く逆でキーパー側なら、考え方も振る舞いも、大きく変わるのね。同じ勝利を目指したとしてもね。良かれと思って自分を出すと、押し付けにもなるし、逆に気を使って遠慮が美徳なんて言うと、輪に入ろうとしない奴なんて事にも繋がる。

何が良いのか?なんて聞かないと判らないが、相手が自分の利益だけを追求するような人なら、自分が良いのが良いって言うに決まっているし、相手を気遣うような人なら、こちらに利益になるような事にもなる。そんな考え方で言うのなら、冒頭の補修の話も同じで、さくらが気を使う人であるって

前提だから、気を使わせないように気を使わないとならない訳で・・。所がきっとそう思っているだろうから・・・とさくらも考えているだろうから、いちいちこうした説明をして、ほらさくらだけの為にじゃ無くなったてしょ?としてやらないと、こんな事なら頼まなければ良かった・・・。

になる。アホか・・・なのね。それは点で考える考え方なのね。つまりこの事例だけを考えるって考え方。俺は線で考えるのね。一番最初の出会いから、今まで何があった・・・って。しかも弟子だし、作品を作らせて貰ったお客さんでもある。ほら複雑になったでしょ?

お客さんなら気を使うけど、弟子なら師匠の立場で気を使わなくて良いか?って普通ならそう考える事もあるだろうし、上司と部下とか、親方と小僧とか、力関係ってあるでしょ?かと思えば、お得意さんなんて場合とかね・・・何個も作らせて貰えばさぁ・・・ほら複雑。

だからそんな複雑な立ち位置な癖に、ただ気を使えば良くて、遠慮が美徳で生きようなんて、そりゃ単純で楽だな・・・って話。それで良いなら、一番下に身を起き、奴隷寸前まで尽くし、人から良い人ね・・・と呼ばれりゃ良いだけなのね。非常に簡単なのね。後はそこまで出来るかどうか?

それで人生を終えるなら、それも良しだけれど、俺の弟子となると、そもそもが作家なんて名乗って、世に出ようって奴の弟子なのね。そもそも死ねって言われるか、死ぬなって言われるか?のどちらかの選択をされる事が、注目されるって点では一番大事な事なのね。

最悪なのは、パフォーマーとして、へぇーみたいな、記憶にも記録にも残らない普通なんて言う事が、一番最悪なのね。良くも悪くも目立たないと・・・だから、波風を立てる。バンバン立てる。人と違う事をするって言うのは、予定調和のぶち壊しになる。そんな一味の一人なのね。

遠慮が美徳で生きられるはずが無いのね。そして気を使うなんて事がしたかったら、偉くなれだし、資金を持てになるし、一番下に身を置いて、気なんか使えば、最後は奴隷かボランティアしか無いのね。でもそれは、永遠なら奴隷であり、ボランティアならいっときだけの期間になる。

永遠はホラーになり、いっときで終わるなら、ボランティアってのはファンタジー。考え方ってのは、簡単に言うと、こんな感じなのね。だって永遠にになれば、ずっとだから奴隷でしょ?貴方良い人ね・・・と相手の都合に合わせるだけの都合の良い人。ホラーだわっ。それを短期間、時間制限

ありとなれば、街のゴミ拾いイベント、マラソンなんかのイベントの手伝い・・・ほらいつか終わる。終わると終わらないとでは大きな違いがあるのね。それで俺の思う一生付き合いたい人って言うのは、厄介な人なのね。ほらさくらのように、弟子でもあるが、お客さんで、いきなり来たり、

はぁ?って思う事もあるが、面倒な事を起こす人・・・何をすれば良いの?どうしたいの?って、何かの役に立てるのなら、日頃の恩返しの一つでも返せる・・・って思ったりもする。それは俺が家族がいないから、携われる事が有難いって思えるだけで、難って言うのがあるって書いて、ありがたいと

読むのだから、一人で生きていて自分が楽しいならそれも良しだけど、俺はそうは思わないから、難があって、ありがたいと思う。きっと神様が乗り越えられる試練をくれているのだろうと・・・。なんだか瀬戸内寂聴さんみたいな話になっちゃったのね・・・ただそれには、経験値も年齢も未熟だが。

ただ方向性はあっているんだろうな・・・。貧乏って言うのは、身近な事を、出来事がまた明日も出来る事であって、いつかそうで無い日が来るまでの切ない時間でもあったりする・・・だからこそ、出来た事に喜びを感じられる。ただ゜それの繰り返しだと思うのだが・・・。


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