『次世代の子どもたちへの贈り物
住みよい時代と優しい社会』
昨年末の大分合同新聞の「東西南北」の記事に別府市の助産師の方のことが書かれていました。
99歳で天寿をまっとうした女性の話でした。
年末の「お悔やみ欄」にその方が亡くなられたことが掲載されていたそうです。
わずか数行の訃報の記事でしたが、一人ひとりにはいろんな生き方があることを感じました。
(2023年1月7日初春 生き方)
わたし自身、家の2階で産婆さんに取り上げてもらって、生まれました。
今では家での出産は考えられませんが、そういう時代でした。
大分合同新聞の年末の「東西南北」のコラムに、戦時中から助産師として、別府の地で赤ちゃんを取り上げた「友成鶴子さん」のことが書かれていました。
助産院を構えて、赤ちゃんを抱いた数は1万人を超えると言います。
それだけでもすごいです。
しかし、時代は、戦時中からです。
このコラムの中で、
「先生たちが兵隊にとられてね。人手が足りんし、産婆さんやったら一生できるっちゅうことで免許を取ったんよ。」
というスタートからコラムが書かれていました。
1万人の産声を聞いた友成さんの指は、変形していたということです。
友成さんの生き様は時代を反映しています。
「昔ん女性は皆、よお産みよったから、嫁としゅうとめが一緒に出産することも珍しなかった。」
「頭巾をかぶってね。民家の軒下の防空壕で子どもを取り上げたこともあったんで。」
別府公園に駐留していたアメリカ軍が去って、父親を失った混血孤児が街にあふれたそうです。
戦争が遺した悲しく切ない話です。
きっと友成さんは、そんな多くの子どもたちの出産にも立ち会ったことでしょう。
「生まれたら、へその緒を付けたまま母親に抱かせるんよ。コミュニケーションは早い方がいいけんな。何年やっても、やっぱ生まれた時は一番うれしいわ。」
友成さんとの最後の会話で、
「もう一遍、生まれ変わっても同じ仕事をするわぁ、絶対に。やりがいがあるし、な。」
1万人のお母さん、そして別府のお母さんが年末に旅立っていきました。
お悔やみ欄に載っている、今は、お悔やみ欄に掲載しない方もいますが、亡くなられた人の数だけ、一人ひとりに、かけがえのない、語りつくせない多くの生き方のドラマが刻まれていることを感じました。
また友成さんのドキュメンタリーを掲載した「東西南北」の記事の温もりと優しさを感じました。