私は盆栽が好きではありません。本来大きく伸びるはずの庭木を、わざわざ小さく仕立てる…。どうも好みにあいません。のびのびとさせてやればいいのに、と思います。
同じように、茶道というものにも興味が持てません。わざわざ小さくて狭い茶室に入ってする茶事に、いろいろな精神性を付加しているところに、なにやらうさんくささを感じます。
茶道を全く知らず、その礼儀も知らない私が茶道をけなせば、無教養な庶民だからと軽蔑されることは承知です。私は、お茶の道のどこがどうといえる知識が皆無です。でも京都洛中の住人であった若いころからずっと、うさんくさいと思っていました。
お茶の道にも、貴族や武士の系譜は少し色合いが違うとも聞きますが、私たちが親しく見聞きしているのは近世の豪商の間で育った「侘茶」です。
あのような狭いところに入りこんで、世界を観じ、自然を観じるという精神性を付加しているところに疑問を覚えます。大きな青空と太陽の下で世界を観じたい。野原や山や海や、そんなところで自然を観じたい。世間のことは、わざわざ狭い茶室の中に入って観じるのではなく、人々の中に分け入って見ればいい。
あの狭い茶室に発する精神性が日本文化の粋のようにいわれると、余りに小さくて情けない。おかしな理屈をつけずにお茶を楽しめばいいのに、と思います。
しかしそうは言うものの、建築様式や花、陶器、料理などのお茶にからむ文化が価値高いことを否定するわけではありません。