「近ごろの若者は…」という年長者の繰り言を、このごろは余り聞かなくなりました。この決まり文句ほどばかばかしい決めつけはないので、いいことだと思っています。
さて、私が見てきた経験でいいますと、「老成する」という決まり文句もあてになりません。年を経て円熟味を増すという人はいるにはいるのでしょうが、それよりも頑なな度合いを増したり、体面を張る度合いが強くなったりする人の方が多く目につきます。
人の性格や人となりは一筋縄ではいきません。家庭でのシーン、仕事場でのシーン、幼なじみとの邂逅のシーンなどと、それぞれに別人のような素顔を見せるものですね。
一人の人がシーンごとに違った人柄を見せるのは、性格や人となりが数多くの要素で成り立っていて、一人の人が多面的で複雑な存在であることを示しています。それでも日常的には、「あの人は威張りだけど、傘の下に入ると義理人情に厚い」などとタイプ分けをして、その人の人となりの傾向性を捉えます。傾向性とは、複雑で多面的なその人の人となりのうちの主導的なものと言えるでしょう。
高齢になると一般的に体力・筋力が衰えます。脳力が衰えます。いくつもある要素の数が減って、人となりの複雑さがより単純化してきます。若いころにいろいろやってきたすべての生活行為の性格が濃縮され、より単純化されて目立つようになります。人前で装って見せてきた要素が衰え、その人の本性に係わる要素がより強く生き残っていきます。
先の例でいえば、「義理人情に厚い」というホットな性分が衰えて、「威張り」という部分だけが残って目につくというわけです。年を加えれば加えるほど、良い部分が弱くなって相対的に悪い部分が目につくようになります。すでに亡くなったり高齢になったりしている身内や身近に知っている人々を見てきた実感です。
人は生きてきたようにしか老いられない、といいます。本当にその通りだという感を強くしています。ささやかなささやかなことでいいから、何かしら人のために役立つことを思い行って、自分の命に刻みつづけていかねば、平安な晩年を迎えられないような気がします。
終わりにつけ加えますと、私の母は脳梗塞を発症して軽度のボケが出るようになってから、何事にも感謝するようになりました。些細なことにすぐ、ありがとう、ありがとうと感謝しています。感謝することで、母本人が幸せそうな表情を見せます。息子の私はまた、そんな母の姿を見て、ありがたいと感謝しています。