川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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私の世代から人の気持ちが変わった(1/4)

2009-09-15 15:15:10 | Weblog


私は1945年11月生まれ、戦後生まれのトップバッターです。
そして、「私の世代から人の気持ちが変わった」というのが持論です。
この持論は、生活体験に基づいています。

◇地縁・血縁のある生活――跡取りたちの生活
私のふるさとは京都市中京区です。住んでいた地域は当時、京染め業界の人たちが密集していました。おそらく今もそうでしょう。学校の仲間たちも、京染めの商家、染めや関連行程の家内工場、家内職人の子どもが多かった。

彼らの多くが家業の跡取りでした。家業が盛んで豊かな家の跡取りは恵まれていました。しかし、家業収入は平凡であろうと思われる家の方が多かった。大学に行った者も行かなかった者もいますが、共通して高校生くらいの頃から時に、家業を手伝っていました。1階が駐車場、2階が仕事場、3階が住まい。あるいは1階が仕事場、2階が住まい。このように仕事と家庭が同じ場所で営まれていました。

跡取りである私の友だちが二十歳前後のころには、彼らの祖父母が生きていて三代そろっているところが多かった。じいちゃん、ばあちゃんといっしょに暮らしていました。数人ていどの従業員のいるところでは、企業的人間関係ではなく、まさに家業的人間関係でした。すなわち雇用関係や就業感覚は「うちの使用人」という感じでした。

私がアルバイトをしていた京染め卸商では、お昼が毎日出されて、経営者・家族・使用人がそろって同じものを食べました。たいがいは「うどん」のように手間のいらないものでした。

◇地縁・血縁の無い生活――私の社縁生活
私には跡を継ぐ家業がありませんでした。東京・新宿御苑前にあるネクタイ製造卸会社に就職して数年間勤めました。同期入社は大卒男子5人と高卒女子5人だったと思います。中野新橋の独身寮に入り、後に京王線明大前のアパートに住みました。

その会社の独身社員で地元東京の出身者はわずかでした。多くが東京以外の地方出身者でした。私はまじめに仕事に励みました。遊びといえば、新宿の盛り場での飲食が主でした。社員同士で行くこともあれば、ガールフレンドと行くこともありました。

仕事に自信ができてくると、若いなりに社会生活や私生活にも自負心に満ちた定見ができてきます。何かのことで相談することがあれば、その相手は会社の先輩でした。家庭持ちでまじめな生活者である三十歳代と四十歳代の人がいました。デパート出入りの会社でしたし、ネクタイを中心とした服飾雑貨を取り扱っていましたので、ものごしも身なりもスマートな先輩社員でした。二人とも神奈川の公団住宅に住んでいました。1970年ごろの東京の地方出身者なら、公団住宅に住んでいる人をうらやましいと思っていました。

東京で地縁に関係したできごとが一つだけありました。新宿・花園神社のお酉さまの祭りでおみこしを担ぎました。一つ年上だった社長の長男といっしょに担がないかと、社長夫人から勧められました。ただそれだけのことで、地縁を慮って何かをしたり考えたりするということには出会ったことはありませんでした。


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