毎日新聞2012年7月17日に、「斎藤環の東北」という記事が掲載されました。ヒロシマ、ナガサキ体験をもとにした「非核三原則」に並置して、フクシマ体験をもとにした「非原子力三原則」を控えめに提唱されています。「非核三原則」+「非原子力三原則」。共感です。以下に記事を転載します。ブログタイトルは私がつけたもので、記事見出しとは異なります。
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私たちは今、未曽有と言ってもよい事態を目の当たりにしている。日本中で人々が「脱原発」の声を上げはじめているのだ。それも「デモ」という形で。
昨年の震災後、反原発を訴えるデモが各地で開催されるようになったが、まだその規模は限られたものだった。しかし今年に入って、とりわけ6月に関西電力大飯原発の再稼働が決まって以降、デモの規模は急速な拡大を示しつつある。
16日には「さようなら原発10万人集会」と名付けられた、過去最大規模の脱原発集会が代々木公園で開催された(16日付毎日新聞Web版)。おりからの猛暑をものともせずに約17万人(主催者発表、警察の集計で約7万5000人)もの人々が参加したのである。昨年開催された同様の集会をはるかに上回る規模だ。
すでに首相官邸前での抗議行動は、毎週金曜日の夜に恒例となっている。13日の夜には約1万人が集まり、反原発をアピールした。もはやこれを一過性のお祭り騒ぎと片付けることはできない。今後各地の原発の再稼働が予定されるたびに、デモの規模はますます大きくなるだろう。一過性の騒音として「大きな音ですね」などとやりすごすには、脱原発の声はあまりにも大きい。
もっとも、初期には反原発運動にも、やや性急なトーンが目立った。同じ「脱原発」という目標を掲げながらも、分裂に近づくこともあった。そうした紆余曲折を経て、今の脱原発デモは、より包括的で多様性をはらんだ運動に変わりつつある。参加する人々の立場も年齢もさまざまで、参加への抵抗感も下がりつつある。要するにデモが一つの文化として成熟しつつあるのだ。
国民感情としての脱原発は、ほとんど決定的なものになりつつある。
幸いなことに東京電力福島第1原発の事故は、直接の死者は出さなかったかもしれない。しかしそれは、単なる幸運に過ぎない。2011年3月14日、第3号機が水蒸気爆発を起こしたさいのキノコ雲にも似た白煙を目撃した瞬間の激しい絶望感を、私たちは決して忘れることはないだろう。あの日以来私たちは、もはやこれ以上原発に依存することはできなくなってしまった。
確かにそれは合理的な選択とは呼べないかもしれない。しかしこれはすでに私たち日本人の〝自尊心″の問題なのだ。今後ふたたび私たちが、ずるずると原発への依存に戻るようなことになれば、私たちはもはや「日本人であること」を誇りに思うことはできなくなる。少なくとも私はそう考える。
それは心情的な問題に過ぎないと言われるだろうか。ならば問おう。なぜ日本は核武装に踏み切らないのか。そこに〝合理的″な理由など存在しない。軍隊は持たないが核兵器は所有するという「国防」のあり方だって荒唐無稽とは言えまい。しかし私たちにはそれができない。
なぜか。それは日本が「唯一の被爆国」であるからだ。私たちが、ヒロシマ・ナガサキに対していまも追悼の時間を生きているからだ。要するに、核のトラウマが一国の防衛戦略を決定づけているわけで、自由主義的な立場からすればこれほど非合理的でセンチメンタルな判断もないだろう。しかし私は、これを矜持ある選択と考える。軍備の放棄と核の拒否こそは、「日本人としての私」を思うとき、そのプライドの中核をなすものだ。
福島第1原発の事故がもたらしたトラウマは、同じ選択を私たちに要請する。被爆国であることが非核三原則をもたらしたように、原発事故が同様の契機となってもいい。そう、非原子力三原則、すなわち「持たず、作らず、依存せず」というルールをみずからの意志で選び取ること。
繰り返す。それが必ずしも合理的選択とは言えないかもしれない。しかしそれは、このうえなく理性的な選択だ。何が合理的か考えるうちに泥沼にはまってしまったかにみえる政府は、いまこそデモという人々の理性の声に耳を傾けなければならない。 (さいとう・たまき=精神科医)