「延命措置をどうされますか?」
2年と4か月の間に、母は、脳梗塞を2回、心不全を2回、肺炎1回を患い、最後にデイケア先でけいれん昏倒して救急車で運ばれ、意識不明のまま病院で命を終えました。意識不明の期間は2カ月でしたから、闘病は2年半ということになります。当年82歳でした。
けいれん発作を起こす10日ほど前のこと。母のベッドを置いている部屋は日当たりの良い明るい部屋でした。午前の暖かい日差しを浴びて、青空がよく見えるベッドで横になっている母に、わたしは言いました。
「おかあちゃん、きょうはええ天気やろ。気持ちええやろ。元気になろな」
「もう…ええわぁ……」
母はぼんやりと青空を見ながら、微かな微かな、か弱い弱弱しい声で言いました。それは命の灯が消えかけているような風情でした。
意識不明のまま救急入院した先で、看護師がわたしに問いました。延命措置をどうされますか、と。母はすでに生きているのが酷であると思われるほどに弱っていました。わたしは、「一切の延命措置はいりません」と答えました。看護師は「そうですね。そうされた方がよいと思います」と言い、延命措置のことはそれだけで終わりました。
母は意識不明のまま、なお2カ月を生きて亡くなりました。今になって思います。あのとき、母にも経管栄養補給をしていたのだろうか。それは腕からだったのだろうか。脚からだったのだろうか。あのときわたしにはそういう知識がなかった。点滴というのは腕からするものだと思いこんでいました。どちらにしても意識不明の母は終わるのを待つだけの状態でした。
100歳までも、それ以上にこちらが生きているかぎり、共に生きてほしかった母でしたが…。
「延命措置について決めてください」
今年のこと。独身85歳で、グループホームでお世話になっていた叔母(要介護3)が、胆管結石の入院手術をしました。血縁者は甥3人と姪2人。その中の最年長者がわたしで、叔母の世話役というか、親類への連絡役を務めています。金銭上のことは、家庭裁判所に申請して成年後見人を選任していただいています。
手術は成功。術後の医師説明で、「嚥下能力がダメなので、嚥下のリハビリをします。だから退院はそのあとになります」ということでした。なぜそうなったのかわかりませんが、食べたり飲んだりすることができなくなっていたのです。
次にまた病院から呼び出されて、主治医の説明がありました。
「認知症のせいで、いろいろと嫌がったりするので嚥下のリハビリができません。経口摂取ができない状態です。こういう状態なので、療養病棟のある病院へ移ってもらいます。地域連携係を呼びますから、転院について打ち合わせてください。嚥下が不能状態なので、このままでは死んでしまいます。延命措置をどうするか決めてください」
個別に事情は異なるので一律に決めつけることはできませんが、わたしの持論は、「それなりの高齢に立ち至って健康回復の見込みが薄ければ、特別の延命措置をして生き延びるよりは自然の摂理に任せるのがよい」というものです。
叔母は、家庭を持つことなく独身のまま気丈に生きてきました。心ならずもアルツハイマー型認知症になって、自分のことを自分で処することができなくなりました。けれども気丈にがんばってきて、人の世話にはならないという姿勢で生きてきた人ですから、このような状態で長生きしたいと思うわけがない。それに気兼ねになる家族は無い。
主治医に「一切の延命措置はしません。ほかの甥姪も意思統一できています」と伝えました。医師は「死にますよ」と強い口調でたたみかけてきます。
わたし「叔母は年も年ですから、胃に穴をあけてまで生きたいとは思いませ
ん」
主治医「何も胃ろうとは言ってません。経管もあります」
わたし「それは何ですか?」
主治医「血管から点滴で栄養を入れます」
わたし「それでどうなりますか?」
主治医「腕からなら少ししか入らないので、1カ月くらいしかもちません」
延命措置について決めてくださいと言いながら、主治医は延命措置をしないということには抵抗します。人の命を助ける仕事の医師の気持ちとして、「このままで何もしなければ死ぬ」とわかりきっていることをできないのだろうと思いました。
けれども、寝たきりで回復の見込みのないままに延命させる医療行為の是非について、主治医はまったく顧慮しません。というよりも主治医の思考のうちに入っているようには見えなかった。生きられる命を見捨てるのか、とこちらが責められているような気持になりました。
主治医は「脚の付け根の太い血管から入れると1年ぐらいもちます」とも言いました。しかし、「転院先のお医者さんが改めて治療方針を決めるでしょうから」とわたしが答えると、それ以上は医師も主張しなかった。
転院が目先です。手術をした主治医の手元にいる短期間、叔母が元気でいられるのはまちがいありませんから。
転院先ではその病院の地域連携係の人が待ち受けていて、病棟に落ち着く前の一連の手続きがありました。書類上の入院手続きのほかに、担当医からお話がありました。
担当医「延命措置は経管で栄養を取るんですね」
わたし「はい、そうです」
担当医「腕からということですね」
わたし「はい、そうです」
担当医「それではもちませんよ」
わたしは前の病院で説明したと同じことを説明しました。日常生活へのこれまでの叔母の処し方、気丈な気性、高齢者同士の話の「風呂やトイレまで自分でできなくなったら長生きしていたくないよね」という常識話、わたしの母もそうであった、延命措置はしなかった、わたし自身についても、イザというときにはそうするよう家族に話してある、身内の意見も同じく統一してある。……そういったことを話しました。
担当医は前の病院の主治医と同じように、わたしの主張に不服そうでしたが、その場はそれでおさまりました。こういう経過を踏んで叔母が病棟に入院しました。
病棟の看護師さんと話しているときに、「きょうは8度ありますので、しばらく内科病棟で看護します」と説明がありました。
わたし「あ、ちょっと熱があるんですか」
看護師「はい、肺炎をやってますので。まだ少しその影響が残っていると思います」
なんと、前の病院では、主治医から「熱がある」とも「肺炎をした」とも、まったく聞かされていません。看護師に叔母の体調を聞いても、「医師にお尋ねください」といった調子で、常から説明はしてくれません。そういう病院でした。
身内が病棟ナースステーションの前の廊下で寄っているときに、病棟の看護師長さんが来て話しました。
「あのう、先生がもう一度聞いてくれといってるんですけど。腕からでは栄養が少ししか入らなくて足りないので、脚から入れたいと言ってるんですけど。どうでしょうか」
脚から点滴栄養注入をしたいということに固執することでは、前の病院の主治医も転院先の担当医も同じでした。それで、居合わせた身内一同ともに、「先生の言われる通りにお願いします」ということで落ち着きました。
それが9月19日でした。そして10日ほど前に病院で聞いたときの病状では、それなりに落ち着いて元気だということでした。ベッドの上で寝たきりの点滴栄養注入をつづけていましたが、そのコンディションなりに安定しているということでした。
しかしその後すぐから敗血症を起こして様態が悪化して、きょう11月26日午後、叔母が亡くなりました。
アルツハイマー痴呆が出ていても、叔母はわたしのことを認知できていました。たまに病院に訪ねたときにはわたしを見てたいへん喜んで、一生懸命に何かを訴えて話していました。しかしそれが言葉になっていません。口の中でもぐもぐ言う音声なので理解できず、わたしは何もできなかった。
胆管結石で入院1カ月、転院して2カ月。この3カ月間を、叔母は寝たきりで過ごしました。寝たきりで先の希望のない生活を送らねばならないことを当人は望んでいないと、わたしは今でも思っています。ですから、叔母が予定より少し早く命を終えることができて良かったと、ほかの身内との間で話し合っております。