川本ちょっとメモ

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<昭和天皇> 「戦争責任をいわれる」と苦にしていた 臣民を不幸・窮状に追いこんでしまった自責懺悔の念は見当たらず

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1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇逝去。

天皇といえば必ず陛下という尊称を付するのが常識ですが、わたしは考えあって個人的には、陛下という尊称を使いません。また天皇が亡くなることを崩御といいますが、天皇だけの特別のことばも使わないことにしているので、逝去と書きます。

2018年(平成30年)8月23日、共同通信配信で昭和天皇付き小林忍侍従の日記が全国に伝えられました。

それは……

1987年(昭和62年)4月7日 (逝去2年前)
仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。これに対し、戦争責任は一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。気になさることはない。国のため国民のために、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい旨申し上げた。

……というものでした。

1975(昭和50年)年5月13日には、「戦前も平和を念願しての外交だった」とも、小林侍従に吐露しています。

昭和天皇のこうした言行が大きく報じられるのは、既刊の正史決定版である「昭和天皇実録(宮内庁編修)」全60巻にも収められていない事実があるということを示しています。

「戦争責任のことをいわれる」と、昭和天皇が苦悩の一端をもらしていたことについては、そのことへの不満があるということでしょうし、「戦前も平和を念願しての外交だった」と言っていることもそういう気持ちでしょう。

昭和天皇の戦争責任については、「昭和天皇に戦争責任はない」とこりもせずに言い募る人たちがいます。

昭和天皇に戦争責任はないと言い張る人たちは、強硬な陸軍を中心とする戦争継続派を海軍や内閣が説得できず、日本の行方が定まらなかった。そこを昭和天皇の御聖断をもって降伏し、日本に平和をもたらしたと言います。昭和天皇が降伏の決断を軍部・内閣に示して、降伏、すなわち平和をもたらしたのはその通りです。

しかし、昭和天皇を擁護する人たちはその一方で、昭和天皇はアメリカと戦争をしたくなかったのに、東条首相や軍部がアメリカと開戦した。明治憲法は立憲君主制なので、天皇には開戦決定をする権限がないという。

こんなつじつまの合わないことを平気でいいます。天皇の決断で戦争を終わらせることができたのなら、天皇の同意なしに戦争を始めることはできないはず。

昭和天皇が戦争について決定権を持っていたことについて、いろいろな研究調査結果が本になっています。この戦争決定に係るため、宮内庁編修の正史「昭和天皇実録」に記載されなかった会議のことも明らかになっています。

わたしは満州事変(1931.昭6.9.18.)、満州国建国(1932.昭7.3.1.)に始まる中国領土内、さらにはアジア全域・太平洋上の諸島での日本軍の加害責任と昭和天皇や軍の独断専行行為に関する戦争責任を明らかにし、これを歴史の事実として日本人全体が常に反省していくことが大切なことだと考えています。

人間は悪いことも良いこともします。とりわけ国のリーダーたちやそのお先棒をかつぐ人たちが「国のために」なんて言い出すと、ひとりひとりの民人たみびとが苦労を背負わされます。

そういったことが再びないように、わたしたちが再び先人の轍を踏んで他国民に対して加害者となることのないよう、昭和天皇や軍の独断専行を厳しく究明し、戦争加害や戦争責任を明らかにしなければいけません。

また外地での日本軍は補給が貧弱でしたから、出軍先の国々や地域の住民にとんでもない迷惑をかけています。強制労役や食糧の強制徴収や傷つけたり殺したり。日本軍さえ来なければあるはずもなかった災厄を、アジアや太平洋上の諸島の人々に与えました。

昭和戦前の戦争責任を厳しく明らかにする目的は、その血を引くわたしたち子孫が先人の失敗と罪に学んで、同じ失敗と罪をくりかえさないためです。昭和20年敗戦から70年余を過ぎて、いまさら昭和天皇や当時の政治指導者や軍部指導者を憎むのでもなく、罪をかぶせて留飲を下げるのでもありません。ひたすらわれら父祖の先人に学び、先人の轍を踏まないよう毎日を歩んでいきたいがためであります。

昭和天皇は生まれついての帝王でしたから、民草は朕(我)あってこその民草であり、朕(我)なくして民草はなかったのでしょう。そうした心情から脱却することはできなかったと思われます。

晩年に至るまで「戦争責任といわれる」ことに悩んでいても、それは日本国民や外国政府や国民から自分が正当に評価されていないという不満でありましょう。

今回の元侍従日記から明かされた昭和天皇の心には、臣民を不幸・窮状のどん底に追いこんでしまった懺悔自責の念は見当たりません。昭和20年敗戦まで毎日毎日、少国民(児童生徒)に奉読させた教育勅語では「爾臣民なんじしんみん」と呼びかけているのですが……。こういうことであれば、古事記にある黄泉よみの国にあっても「戦争責任をいわれる」という悩みはつづいているでしょう。

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