川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

徳川時代の日本、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』 ノエル・ペリン 著 中公文庫

2019-11-03 15:27:41 | Weblog
2020-01-15

  著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。 ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、米軍艦に乗り換え、米陸軍将兵の一人として朝鮮半島に上陸しました。

 私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

在日米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうちの若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。


 この文庫本をずっと昔に本屋さんの店頭で買いました。奥付を見ると1991年3月25日印刷 4月10日発行になっています。ということは二十数年前に買ったものでしょうか。
 

1615年 大坂夏の陣、豊臣家滅亡
1637年~1638年 島原の乱
1861年 ロシア軍艦が対馬の一角を占拠
1863年 長州藩が下関海峡通過の外国船を次々砲撃
1863年 薩英戦争 薩摩藩とイギリス艦隊
1864年 下関戦争 長州藩 英仏蘭米艦隊が下関来襲
1868年~1869年 戊辰戦争

1638年島原の乱が終わり、1861年あたりから始まる幕末争乱までの徳川時代220年は、天変地異の災厄や一揆などがあったけれども、天下泰平の平和な時代でありました。

しかしこの時代の日本の天下泰平が、近世歴史世界に誇れる平和日本だったということを発見できたのは、この本のおかげでした。この本を読んだのは25年前くらいだったでしょうか。そのときから、徳川時代の見方が変わり、明治維新の見方は大きく変わりました。

著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。

ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、佐世保から海を渡りました。

私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

本州と九州の陸海空米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうち若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。

さて、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』はまだ文庫新本を売っているようです。著者序文と訳者あとがきをここに転載します。


<日本語版への著者(ノエル・ペリン)序文>

 他人の国の行動に口出しすべきでないということは承知しているつもりです。ヘンリー・キッシンジャー氏ほどの外国通、田中角栄氏ほどの実力者にあってさえ他国のことに干渉していません。

 しかし、希望を表明するのは一向に差しつかえないでしょう。わたくしは日本に希望をいだいています。それは、このところアメリカ合衆国が日本に対して次第に強力にかけている自衛隊の規模を増強するようにという圧力に、日本が屈してほしくない、というものです。

 日本が合衆国の陸・海・空軍に「ただ乗り」しているという主張は、アメリカ合衆国政府(ないし合衆国の政府関係筋)における常套句になりつつあります。「ただ乗り」といいますが、いったいどこがその終着駅だというのでしょうか。核戦争ではありますまいか。すでに核を合衆国は広島と長崎に見舞いました。もうたくさんでありましょう。

 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探究と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。

 人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。

 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合のものではまったくないからです。

 それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

ダートマス・カレッジにて
  ノエル・ペリン
             1984年2月24日



<訳者(川勝平太)あとがき>

 本書は過去の出来事の実証を目的としたものではない。本書は、日本の歴史に教訓を汲みとった反戦・反核の書である。ライトモチーフは「日本語版への序文」に明瞭であろう。背景にある問題は深刻でありまた大きい。核のコントロールは可能であるのか、核兵器を廃棄にもちこむことは本当にできるのであろうか。

 著者ノエル・ペリンは、日本の武器の歴史を語りながら、これらの問いのいずれに対しても、直接的ではないが、明らかに「イエス」という答えを出している。

 本書の一部は雑誌『ニュー・ヨーカー(The New Yorker)』(1965年11月号)に「鉄砲の放棄(Givng up the Gun)」の表題で発表された。本書はそれを下敷にして加筆され、1979年、同じタイトルのもとで「刀へ後戻りをした日本、1543~1879年」という副題をそえて発行されたものである。発行当初より多大の反響を呼び、書評があいついだ。

 同年中だけでも『シカゴ・サン・タイムズ』『ライブラリー・ジャーナル』『ボストン・サンデー・グローブ』『ロスアンゼルス・タイムズ』『ワシントン・ポスト・ブック・ワールド』『カーカス』『ニユー・リパブリック』『フィラデルフィア・インクワイアラー』『タイム』『ニューヨーク・レヴュー』等々の雑誌や新聞紙上でやつぎばやにとりあげられ、いずれも、本書に論述された世界の歴史に類例のない日本の武器の「反進歩の歴史」には率直な驚きをかくさず、そこから核の時代への教訓を説得的に引き出したペリンに讃辞を惜しんでいない。

 アメリカ合衆国の前駐日大使E・0・ライシャワーは「これは極めて重大な物語である。数多くの興味深い史実が盛りこまれ、日本と西洋における技術、軍事、生活の違いが鮮やかに浮き彫りにされている。思考を刺激し、感興をそそる作品である」と歎賞した。

 本書は、すぐれて問題提起の書である。過去の出来事に根拠をもとめつつも、現代さらには未来への指針を探ったところにその価値は見出されるべきであろう。

 現代は科学技術の支配する時代である。技術ないし道具の発達は、遠く人類の生誕にまでさかのばる。以来、道具の発達によって人間の生活の向上がもたらされてきた。

 問題は、技術の発達が同時に武器の発達をともなったことである。この間題の根はふつうに想像される以上にふかい。

 今西錦司博士によれば、人類の最初の道具は外敵から身を守る防御のための棒切れないし石であったという。つまり道具を使う動物たる人間の最初の道具は武器であった。武器は人類の歴史とともに古いのである。

 ノーベル生理医学賞を受賞したK・ローレンツによると、
 動物は原則として同種の仲間を殺さない。
 ところが人間の世界では、殺人が日常的にみられる。
 武器と殺人とは人類のもつ原罪のようにさえみえる。

 人類史が道具ないし技術の発達によって特徴づけられるとすれば、それは同時に武器の発達の過程でもあった。生活の向上を約束する技術の発達が、生存の安全を脅かす武器の発達をともなう。そこに問題がある。

 世界史を繙けば、戦争の繰り返し、いいかえれば相手をできるだ効率的に抹殺する、より優れた武器の発明と改良の歴史であった。この過程は一見不可避に見えよう。

 世界史における武器発達の二大画期は、鉄砲の発明と核兵器の発明とであろう。前者は中世から近代への転換に決定的位置をしめ、後者は近代に終蔦をもたらしかねない危険性をもつ。

  三つ目の画期を成す兵器は、ミサイルに始まり、今どんどん開発されている遠隔操縦無
   人兵器ではありませんか。殺人兵器の操縦はテレビゲームのような感覚でできるでしょ
   う。人体が破壊され、飛び散り、苦しむありさまを見なくてよいのです。これなら命令
    を下す人も、遠隔操縦する人も、殺人感覚が希薄になるでしょう。


 鉄砲の使用が近代を通じて拡大したように、核兵器もそれが発明されて以来、保有国、保有量は拡大する一方である。新式武器が旧式のものにとって代わる。これは武器の歴史の鉄則のようにみえる。しかし例外があった。それがほかならぬ日本における武器の歴史である。

 鉄砲は、天文13年(天文12年という説もある)に種子島に漂着したポルトガル人がもたらして以来、日本中に燎原の火のごとくに広まった。16世紀後半の日本は、非西欧圏にあっては唯一、鉄砲の大量生産に成功した国である。それにとどまらず、同時代の日本は、ヨーロッパのいかなる国にもまさる世界最大の鉄砲使用国になった。

 ときあたかも戦国時代であり、日本中が戦争に明け暮れする中で、鉄砲を前にすれば刀剣が無力であることは証明ずみであった。にもかかわらず、日本人は鉄砲をすてて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起こるべからざることが起こったのである。

 日本史の教科書には「鉄砲の伝来」については必ず書かれている。しかしこと「鉄砲の放棄」については余り注目されていない。ペリンはここに着眼した。

 著者が特に注目している時期は江戸時代である。それは鎖国の時代であり、日本が国際的に孤立した時代であった。だが戦争のなかった時代である。

 ひるがえって同時代の西洋をみれば、地理上の拡大からいわゆる帝国主義列強へと雄飛する時期に当っており、この間、西洋諸国は、植民地に対してはもとより、仲間うちでもドイツ三十年戦争、英蘭戦争、英米戦争、ナポレオン戦争等々、枚挙にいとまのないほど戦争に明け暮れていた。西洋諸国と比べれば、当時の日本の社会は「天下泰平」を謳歌していたといえるのである。

 16世紀後半に西洋と日本とはともに鉄砲の時代を迎えながら、一方においては鉄砲の使用・拡大による戦争への道、他方においては鉄砲の放棄・削減による平和への道という対照的な歴史過程を歩んだ。

 この際立った相違こそ著者ノエル・ペリンのもっとも注目したところである。しかも、武器の発達を止めた近世社会は、それによって貧しくなったのではない。

  経済学においては生産に必要な要素は土地・資本・労働の三つの生産要素に整理されるが、その組み合せによっていろいろな型の経済社会が考えられる。西洋では、獲得した広大な土地に対して労働力が相対的に不足し、労働の生産性をあげるために大きな資本が投下された。

 鎖国下の日本では、土地は限られていたが、労働力の供給は相対的に豊富であったから、労働を集中的に投下して土地の生産性をあげることが課題であった。これは多肥集約型の農法の開発として果たされた。

 西洋では技術の規模の大きい資本集約型、日本では技術規模の小さい労働集約型の経済社会を生み出したのである(社会経済史学会編『新しい江戸時代史像を求めてーその社会経済史的接近』東洋経済新報社、1977年、を参照されたい)。
 ―以下、略―

   1984年4月29日




コメント