川本ちょっとメモ

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鉄砲伝来32年で量産・大量実戦配備できた16世紀日本四つの理由~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』

2019-12-06 23:24:45 | Weblog
2020-01-15

  ※『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン著(中公文庫)を以下、
   「上掲書」と表記します。


 鉄砲伝来は、1543年(天文12)。同時代世界史でトップの鉄砲戦である長篠の戦が1575年(天正 3)。その間、32年。当時の日本がそれほどの短年数の間に鉄砲を量産し、鉄砲戦が合戦を左右するほどに大量の鉄砲を実戦配備できた事情を、ノエル・ペリンは4点あげています。


 [1] 「何よりも当時の日本は武家社会であった」(ノエル・ペリン上掲書P35)

「十六世紀の日本にあっては、文人としての栄光を人生の目標とする少数の京都の貴族をのぞけば、まともに育った男子ならば誰しも武勲をたてることをもって本懐とした」(ノエル・ペリン上掲書P35)



[2] 鉄砲伝来から量産に至る時代の日本は戦国時代であった

「数多の戦国大名が、将軍を傀儡化しかいらいかし――天皇はそれ以前から将軍の操り人形同然であった――、天下の覇権を握ろうと相争っていた。そこで当然のこととして戦国大名は、新式の武器をはじめ、その他自分を優位に立たせてくれるものには、何にでも関心を示した」(ノエル・ペリン上掲書P36)



[3] 当時のヨーロッパに対抗できるほどに日本の技術水準が高かった

(※日本製銅・鉄は当時のヨーロッパ製より良質で)
 「きわめて安価だったことから、日本銅は、十七世紀には世界中に輸出された」(ノエル・ペリン上掲書P36)
 「たとえばオランダ人は、日本の銅を何千マイルも離れたアムステルダムへ運んでなお利益をあげていた」、 「オランダの鋳物工はたいてい好んでそれを銅製の大砲の鋳造に利用していた」、 「鉄の価格も、日本鉄はイギリス鉄よりも安かった。そのイギリスはヨーロッパ随一の鉄生産国であった」 (ノエル・ペリン上掲書P37)


 ノエル・ペリンは当時の日本がすぐれた工業国であったとして、紙製品の例をあげています。

 イエズス会の一宣教師は、当時、日本には紙の種類がヨーロッパの十倍はあろうと推定している。日本の紙の中には今日使うクリネックス、つまり、ちり紙やはな紙もあった。アメリカ人は今でこそ自分たちがこの便利な品物の発明者だと考えているだろう。だが、それよりも少なくとも三世紀も前に、日本人はこれをつくっていた。それどころか輸出さえしていた。

 1637年、ピーター・マンディなるイギリス人がたまたま中国の沿岸マカオにいた。その地で彼は、大坂商人の一行が、はな紙を使っているのを見てはなはだ感心したのであった。

 マンディは、そのときの模様を後に次のように記している。「この都市で数人の日本人を見かけた。彼らは何やら柔らかくで丈夫そうな紙を小さく折りたたんで所持しており、これで鼻をかむ。鼻をかんだあとどうするかというと、もうその紙は汚いものという体ていで捨ててしまう。顔を拭うには日本人はリネンのハンカチーフ〔てぬぐいのことか?〕をもっていた」。

 マンディが感心したのは無理もない。当時のイギリスでは、たいていの人は服の袖で鼻をかんでいたのだから。(ノエル・ペリン上掲書P37)


 ノエル・ペリンは、当時の日本刀製造技術が高水準であったことを示す事実もあげています。

 オランダ人アーノルド・モンタナスは当時「日本人の使うアラビア・ペルシャ風の彎刀型の太刀は出来ばえが見事で、すばらしい焼きが入っているから、ヨーロッパ製の剣など、菖蒲や灯心草をなで切るように真二つに切り裂いてしまう」という観察を下している。(ノエル・ペリン上掲書P40)

 ……先のモンタナスの話は検証できるものであって、実際検証されたことがある。傑出した今世紀の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、十六世紀の日本刀によって近代ヨーロッパ製の剣を真二つに切る実験に立ち合ったのがそれだし、また十五世紀の名工兼元(二代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。(ノエル・ペリン上掲書P41)

 ……こうした高級な日本刀を作ることのできた日本人であるから、その技術を鉄砲に適用するのに、さほどの困難はなかったのである。(ノエル・ペリン上掲書P41)

 ……(※高い建築技術を示す織田信長新築安土城を見た、1596年のイエズス会士ルイス・フロイスは)上司宛に次のように書いている。「私はみずからがすぐれた建築家であれば、と思います。そうでなくともせめてここで見た一つ一つをうまく描写できるだけの才能に恵まれていればと思います。と申しますのも、これまでポルトガル、インド、日本でみてまいりました宮殿、家屋敷の中で、これに比肩しうる斬新さ、優美さ、清らかさをかつて見たことがない、ということを強調したいからです。」(ノエル・ペリン上掲書P42)



[4] 人口2500万、識字率・文化水準が高く、躍動感にあふれていた

 当時の日本は、戦国の世と呼ばれようが、ほかに何と名づけられようと、ともかく躍動感にあふれていた。まず十六世紀の日本の人口2500万は、その当時のヨーロッパのどの国の人口よりも多い。フランスの人口は1600万、スペインの人口は700万、イギリスの人口は450万であり、今日のアメリカ合衆国の地にはおよそ100万の人口しかいなかった。(ノエル・ペリン上掲書P42)

 ……教育について言えば、仏教僧は「大学」を五つもっていた。もっとも小規模の大学でも当時のオクスフォード大学やケンブリッジ大学を凌いでいたのである。(ノエル・ペリン上掲書P43)

 ……たとえば1547年、足利学校には三千人の学生がいた(Boxer,Christian Century,p.44)。オクスフォード大学もケンブリッジ大学も二十世紀に至るまでその規模に達しなかった。(ノエル・ペリン上掲書P157 注28)

 ……精確な統計はないが、1543年当時の日本人の識字率は、ヨーロッパのいかなる国よりも高かった、と信じるにたる十分な理由がある。(ノエル・ペリン上掲書P43)

 ……文芸に対する関心も高いものがあった。武士階級の者は、戦場を駆けめぐる合間には、典籍に親しむのが当たり前のこととされていた。1588年、時の日本の軍事統率者・豊臣秀吉は、聚楽第で和歌御会わかぎょかいを催している。(ノエル・ペリン上掲書P44)

 ……十六世紀後半に日本に滞在していた別の宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろん、ルネッサンスの絶頂期にあった(ノエル・ペリン上掲書P45)


 前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチの場合と同様の結論であった。(ノエル・ペリン上掲書P45)



 
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