[初出] 1966(昭和41)年11月 河出書房新社 刊
高橋和巳「邪宗門 (下)」 朝日文庫 1993(平成5).7.1. 1刷 P541~P545
焼け落ち、所々にバラックが建ちはじめている貧民窟の一劃、道路と関西線の堤に
はさまれた区劃だけが残った、日傭宿に、千葉潔と堀江民江、そして医師には見おぼ
えのない従者がつき従って瞑目している。
──略── 石像のように、彼らは何の感情も表にはださず、黙って坐りつづけて
いる。簡易宿泊所の管理人が宿泊代を要求しても、ぞっとするような眼で睨みすえる
だけ、周囲の者も恐れをなして、管理人の味方をする者もいなかった。
食事時になって彼らの前に、医師が雑炊やシチューを運んでやっても、彼らはそれ
に箸をつけようともしなかった。
人々は気味わるがるだけだったが、医師には神部から逃れてきた救霊会の残党が、
どうするつもりなのかは、はっきりわかった。瞑目したまま、この世の汚濁の一切か
ら厭離し、何も語らず、何も食わず、餓死して果てようとしているにちがいなかっ
た。
医師は知っていた。救霊会は他の宗教と異なって、苦しみの果てに自殺することを
許す宗教であり、沈黙はこの世に執着を残さぬため、絶食は罪なき動植物を食って生
きた人間存在そのものの根源悪に対する僅かな謝罪として、むしろひそかに称揚して
きたことを。医師が救霊会の経営する愛善病院長をしていた時代にも、回復の見こみ
のない患者の多くが、このようにして死んだのを彼は見ていた。みずから意志した平
静な餓死──それは自己の業を絶ちきって二度と苦海に生れかわることのない死、全
く虚無に帰さんとする人間存在の最後の祈願と認められていたのだ。
(注)老衰の場合、いよいよの最期が近づくと少量の流動食でさえ受付けなく
なり、その状態になると1週間ほどで眠るがごとくに寿命を閉じます。わた
しの身内の一人がその通りの平静な最期を終えました。小説作品へのこだわ
りを捨てて、形容句として言葉通りにみるならば、この老衰の姿は「平静な
餓死」の尊い姿ではないでしょうか。
──略── 二日三日経つうちに、行者たちのいる場所には腐臭が漂いはじめた。
絶食している以上、ほとんど排泄物も出なかったのだが、やはり少しずつ滲むように
分泌物が流れだしていたからだろう。
救霊会の残党らしいと噂が立って、警官がきて訊問しても何も答えず、MPと市の
衛生局員がDDTを撒布しにきた時も、真白に薬剤をぶっかけられながら、四人の行
者は身じろぎもしなかった。ほとんど呼吸さえしていないかのように、凝然と坐りつ
づけていた。
いや、ただ一度、四人の行者、とりわけ異様に睫毛の長い先達が、わずかながら人
間らしい反応をしめした時があった。
彼らが箸をつけないことは解っておりながらも、医師がはこばせた雑炊を、まぎれ
こんできた浮浪児が奪い合った時だった。浮浪児たちは、行者の漂わす怪しい気配に
も気づかず、四人の前におかれた一個ずつの雑炊を奪い合い、たがいに殴り合って、
その雑炊を通路にこぼしてしまった。しかもなお飢えた浮浪児は、通路に口をつけて
その雑炊をすすったのだ。その時、墓石のように坐ったまま動かぬ先達行者の空洞の
ような瞳から、たった一滴だけ、一滴だけながら……ぽと、と涙が滴った。だが、碗
の雑炊を奪い合った浮浪児も、同宿の日傭も、それには気づかなかった。
四人の行者が倒れたのは、彼らがそこへ入ってきてから七日目だった。まず腕に
傷をしていた一人が、死者そのままのような皮膚色になって、ふわっと、横ざまに倒
れて息をひきとった。絶食絶飲して、息が絶えても、もはや体内から流れだす汚物も
なく、皮膚の表面に浮いていた静脈が、血液の凝固とともに色を失った。続いてもう
一人の行者が、ことっと背後の板壁に背をもたせ、ミイラのようにそのままの姿勢で
死んだ。もだえもなく、死の直前の荒い呼吸音もなく、また倒れもしなかった故に同
宿人は彼がすでに息をしていないと気づいたのは、他の二人も死んで後のことだっ
た。
三人目に、指導者らしい魁偉な風体の行者が、死んだ。死ぬ間際に、彼は、顎を震
わせて何かを言おうとした。女行者がそっと、やさしく、男女の性別を越えた、聖な
る優しさで彼の肩を抱き、耳をその口許に寄せて、二、三度しずかにうなずいた。女
性は絶食にたいして、やはりいちばん抵抗力があるのだろうか。頬の肉はおち眼窩は
くぼみながらも、彼女の皮膚は幼女のように清潔であり、なにか乳の臭いのようなか
すかな芳香すら発していた。指導者の口が魚の呼吸のように開閉し、そしてがっくり
と首を前に折った時、その女行者の口から、涙のように血がしたたり、そして噛み切
られた舌の先が、ぽろりと膝の上に転った。何のつながりあってか、どうした恩顧あ
ってか、女行者の死は、餓死ではない。あきらかにその先達のあとを追う殉死だっ
た。
それほど苦しまないで死ねる方法は何だろう …… と、青年時代に単純脳で思っていたことがあります。なんとなくぼんやりと思っていたことで、死ぬことについて深刻に考えていたわけではありません。
■■切腹は残虐や
高校生のときに、出刃包丁の切っ先をお腹にあててみたことがあります。
切腹ってどんな感じかと思いましたが、出刃包丁の切っ先をお腹を突くようにしてちくりと触れるだけでも怖くて怖くて、お腹を切るなんてとんでもない。単なるお遊びでしたが、「切腹をやれなんて、武士は残虐や」という感想を持ちました。
■■心臓の発作で死ぬのは嫌だ
わたし二十歳の年の子どもの日。快晴。父、わたし、私の友人の3人で、京都府下の堤防のない田舎の川まで出かけて、初めての投網遊びをしました。
網打ちを始めてまもなく、丸い石ころばかりの河原から水際にかかる辺りで、父が倒れました。唇からわずかに血がにじんでいました。倒れたときに打ったようでした。
石ころ河原の入り口辺の土のところまで、友人と二人で父を抱えていきました。父は意識をとりもどしました。膝をかかえるようにしてうつむいて苦しそうに息をしていました。苦しくて話すことができないありさまでした。
スマホもネットもない時代のことでした。わたしは父を友人に託して、車で救急車を呼びに行きました。土地勘のない田舎道をあてなく走って電話を見つけ、救急車を呼び、父のもとにどったのはほぼ30分後のことでした。父の息はすでに絶えていて、父がわたしの名前を何度か呼んでいたと友人が言いました。
あとになって母が言いました。父は心臓の調子がぱっとしなくて、何日か前に開業医で診察を受けたということでした。心臓の発作で死ぬのは嫌だ。そう思いました。
■■22歳の4月、就職上京3週間後に肋膜で東京医大病院3か月入院
4月始めだったと思いますが、就職上京して中野新橋にあった独身寮に入りました。新入社員教育期間中に風邪熱7度5分~8度5分が出たので、独身寮近くの町医者で注射をしてもらい薬をもらいました。けれども熱は上がって9度オーバー3日目の朝、寮母さんが車でわたしを東京医大付属病院へ連れてくれました。
胸部レントゲン写真では片肺がまっ白で、「ペニシリンやプトレプトマイシンなんかが普及していない昔の時代だったら死んでるよ」と医師が言いました。そのまま即時入院。結核性肋膜だが開放性ではないということでした。そして3か月後に退院。京都に帰郷して結核診療所通院自宅療養になりました。自宅療養も3か月を要したので、半年の大病になりました。
中年以後に3回、軽い肺炎にかかった経験から察するに、町医者段階で肺炎になっていたのではないかと思っています。22歳と若かったので、お医者さんは肺炎に思い及ばなかったのだと思います。
■■死ぬのなら肺炎高熱死が苦しみが少なさそうと思っています
わたしは東京医大病院で受診した時点で発熱が数日続いて9度オーバーになっていました。高熱つづきで気分がボーッとなっているうえに、上京まもない緊張感に包まれていたせいか、しんどいとか苦しいとかの自意識はなかった。
それでいて、東京医大病院で診察を受けて入院が決まったところまでで記憶が途切れていました。次に始まる記憶は何の違和感もなく当たり前のように病室で生活しているわたしでした。入院してからほぼ1週間のことはまったく覚えていません。
入院の手続き、病室生活に必要な洗面道具や着替え下着ほかの調達など退院するまで一切の世話を寮母さんがやってくれました。寮住まいの社員の世話は会社業務でありましたが、この寮母さんはできぱきとしていて、やさしくしてくれました。わたしは恩人という思いで今でも感謝しております。
わたしはこの記憶から、肺炎で高熱がつづけば、あまり苦しまないで死ねそうだと思うようになりました。
新型コロナ重症では、肺炎が進行して呼吸困難に陥り、死に至ります。老齢の方でコロナ重症に進行した方々では、当人が自覚する苦しさは傍目で見ているほどにはひどくないのではないかと、私自身の若いときの病気体験から想像しています。
ご近所にコロナ重症になって回復生還した女性がいらっしゃいます。その方は60歳前後の年齢ですが、1週間ばかり意識不明のまま集中治療室に入っていたそうです。息ができないで苦しくて苦しくて、というような話は聞いておりません。
意識不明になる前の朦朧段階ですでに苦しくても、苦しいという感覚が微かになっているのではないかと想像します。
こうした経験から、わたしは「肺炎高熱死」なら苦しみが少なさそうだ。病気で死ぬなら、最期はこれがいいなと思っています。
■■高橋和巳「邪宗門」第30章 餓死
■■飢え死にの描写に興味を持った
わたしは高橋和巳の小説のファンです。河出書房新社の第1回文芸賞受賞作「悲の器」以来、新作が出るたびに読んできました。高橋和巳を読まずしてという、そういう時代がありました。
高橋和巳作品集も揃えていましたが、ドストエフスキー全集とともに、東京から京都へ転職帰郷する折に、東京生活の飲み代の清算支払い金の一部となって消えていきました。転職帰郷した京都時代に「河出文庫 高橋和巳コレクション」を揃え、今の奈良県人になってから、河出書房新社「高橋和巳全集」を古本で揃えました。高橋和巳全集を買ったきっかけは、特にわたしの好きな短編、「飛翔」が全集所載以外に見つからなかったからです。
高橋和巳の小説「邪宗門」の『第30章 餓死』に、宗教団体ひのもと救霊会の滅亡とともに、千葉潔第三代教主ほかが自死を択んで餓死してゆくシーンが描写されています。
小説そのもののこととは別に、これを読んでから、飢え死には苦しまないで死ねそうだと興味を持ちました。
下にそのあたりの描写を写しました。
■■絶食3日の経験
■■時と場合によってはわたしでも飢え死にできそうな気がする
二十代後半の年ごろのことでした。朝はりんご1個まるかじりだけで出勤することが多かった。お昼は会社近くのサラリーマン御用達のめし屋さん。夜はいろいろでした。パブや居酒屋さんレベルで飲食のことも多く、そうでないときはアパートに帰宅してトースターでホットドッグにして食べることも多かった。
そんな暮らしの中のある日、朝抜きで出社しました。なんとなく胃腸が重くて食べる気がしなかった。おぼえていませんが、前夜にアルコールが過ぎたのかもしれません。
そしてお昼どきになっても特にお腹がすくわけでもなかったので、昼も食べずにすませました。その日は日暮れになっても空腹ですが、がまんできないというほどでもありませんでした。絶食体験の挑戦チャンス到来、夜も絶食しました。
2日目も無事に絶食実行。ふつうに出社して、ふつうに仕事をしました。ふしぎにも空腹感は無く、体力的にも何の違和感もなく疲れもありません。
3日目。朝食を抜いても昼食を抜いても2日目と同じように、すべてが平常通りでふつうに仕事をしていました。
ところがおやつの時間ごろか夕方早めの時間ごろだったかに社内を歩いているときに突然、片ひざの力が抜けて床に片ひざ着き、それと同時にさっと立ち上がってふつうに仕事をつづけました。ですから、まわりにいた社員も異常に気づきません。
わたし自身は、これはいかんとばかりに絶食中止と決めました。そうなると急にお腹がすきました。早めに会社を終えて、新宿に駅ビルだったか繁華街だったかで外食しました。
絶食の経験談なんぞ珍しくもないでしょうが、わたしには貴重な経験でした。このときの経験で、絶食は最初の1日か2日が空腹感にさいなまれるにちがいないと思うけれども、それを過ぎたらそれほどつらいものではないだろう、わたしでも、時と場合によっては、飢え死にできるかもしれないと思うようになりました。
■■わたしが夢想している自身の終末4条件
わたしは晩年の母と手を取り合うようにして暮らしました。
若いときから自分の死に際の姿に関心がありました。
今のわたしは、 ①自分の力でトイレへ行けること、
②自分で風呂にはいれること、
③自分で食べられること、
④1日1回は自分の足で数百歩くらい外気を浴びたい、
──の4つができなくなったら、
生きるのをすませたいなあ、と思っています。
生きるのをすませたいとは言うものの、今のわたしには「自死」なんぞできっこありません。
映画館で見るハッピーエンド、めでたしめでたし映画の終わりのように、上の四条件を全うしてすうっとフェードアウトして、まっ暗になったと思ったとたんに館内パッと明るくなる …… ような終末の形を夢想しています。
パッと明るくなるというのは、次に来るはずの「来世」という自分の未来が明るく開けますようにという欲望ですね。来世なんてあるものかと思う人でも、自分が死んだあとの「子や孫の時代」と受け取るならば、パッと明るくなる未来を願うことができるでしょう。一人一人がそう願うなら、その一人一人の集積である世界の未来が明るくなる。