1977年初版発行、1997年講談社文芸文庫へ。昭和時代に書かれた自身の母の老いと死をテーマとした三部作に、短編「墓地とえび芋」を併録。「わが母の記」はおととし、役所公司主演で映画になり、好評を博したという。
ほぼ作者に重なる私の母は八十を過ぎ、今で言う認知障害が現れ始める。最近の記憶は欠落し、夫のことも忘れ、若い頃の身内の優秀な青年の話ばかりするところから始まり、いろいろな症状があらわれてくる。人を人たらしめているのが、バランスの良い認識と人とのきちんとした距離の取り方だとしたなら、頭のどこかの機能が欠落していくにつれ、その人特有のこだわりや性格の素の部分が現れてくる。
そのことをしっかりと見て、達意の文章で書きとどめる。読む者が感じるのは人の不思議さである。何枚にも重ねられた意識の底に自分でもコントロールできない欲望や好悪が隠されていて、それが表に現れてくる。
子供のところへ来ていても、家に帰ると騒ぐ、一緒に寝ていた赤子がいないと探し回る。もっと子供に戻って裕福な祖父の素で育てられていたころの性格まで戻ることもある。
毎日何が起きるか分からない。それを突き放す出なく、うろたえるでなく淡々と書いている。その端々に親への愛情が感じられる。
親がなくなると死がすぐ向こうに見えて、死の見通しがよくなる。親はいるだけで子供を守っているというくだりは、高齢の親を抱えた私達世代の共通の認識であろう。
大事件も大恋愛もない日常を淡々と描いた作品集だけど、人間の一つの姿をよく書いていると思った。
「墓地とえび芋」は、古印が入ったとの知らせで京都の骨董商を訪ねた当日は、当の骨董商の葬儀の日だった。
出棺までの短い間に、先輩作家の墓参りを済ませ、親戚の墓地に預けたままの次女の遺骨を埋葬するために新たに墓地を買うことになり、再び葬儀へと戻り、妻から頼まれた買い物も何とか果たして・・・というそれだけの短編だけど、ちょっとした縁に引きずられて、昔暮らしていた若い日を思い出し、改葬まで思いつく、縁の不思議さ。
さすが大家、うまい。最近ではこんな端正な文章にはめったにお目にかからないと思う。