夕方、孫娘から電話があった。きょうは弟だけが受診したので、おやつをお土産に持って帰ってもらったら「ありがとう~おいしかった~」という電話である。
この間生まれたと思っていたのに、もう4歳と2か月、電話の受け答えもしっかりしてきてウルッとしてしまう祖母でありました。
きょうは8月1日、我が地方では朝から小雨、夕方はけつこう降って8月としては涼しかった。昔なら夏休みの初日、海水浴の日と決まっていた。近所で誘い合わせて一日を海辺で過ごす。子供たちは一日遊び、大人たちは桟敷席や松の木陰で話をしながらのんびり過ごす。
いやいや、いちばん楽しくて幸せだったのは小学校一年生の夏の初め。記憶も本当に切れ切れなんだけど、どの場面も古い絵葉書のように美しくて懐かしい。
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夏の午後、私は祖母と半島の先へ向かって、道路をずっと歩いている。電車を降りてからその家に行くまで、一時間くらい歩いたかもしれない。
海岸沿いの道路はまだ未開通、中腹の砂利道を二人で歩く。自家用車が一般に行き渡るまだ前、どこへ行くのも電車バスであとは徒歩。当たり前だった。
松の疎林の間から海が見下ろせた。松の葉擦れの音がして、海はきれいで、それだけをなぜか覚えている。
大人になってからいろいろな事情が分かり、それを組み合わせると、どうもその時は祖母の妹の家へ遊びに行ったのだったらしい。優しそうなおばあさんがいたから多分あの人だったのかも。
泊まったのだと思う。石材業者で裕福だったのかもしれないが、特に豪華な暮らしというのではなかった気がする。
後ろは山、前はもう海だった。
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海はとてもきれいだった。その家の子や近所の子と海へ行って、遊んだ。小魚や貝を採って砂で生簀を作って泳がせる。小さなフグがたくさんいて、ちょっと触るとお腹を膨らませて逆さになり死んだふりをして動かない。
手ですくって生簀に入れる。ヤドカリをたくさん獲った。みんなが仲よく遊んで呉れた。
何日かたって・・・翌日だったのかも、また別の時だったのかも、夜また歩いて半島の先まで行くと、夏まつりだった。大漁旗を建てた漁船が集まり、漁火で漁港は昼間のように明るかった。花火もあった。
祖母の娘=叔母たちも来ていたので、あとから来たのかもしれない。港がよく見える丘に上がり、畔に腰かけてたら誰かが「ムカデがいる」と騒ぎ出したのだった。
とても眠かった。だけど、また歩いて親戚の家に帰った。
父は子供のころよく遊びに行ったらしいが、私の代になるとほとんど付き合いがなかったので、その時は本当に嬉しかった。それまでに二、三回行ったかもしれないが、、記憶に残っているのは決まって夏。
広い座敷、離れ、涼しい海風、大人たちの話し声ととても眠い私。子供だから何の心配もなく、眠い時には寝るだけでいい。
父は11人と兄弟姉妹が多くて、幼時に死んだ人と戦死した人以外は私の子供のころは皆元気で、我が家は人の出入りが多く、親戚づきあいも今よりずっと濃厚で、夏休みはいろいろな家に行けるのでとても楽しみだった。
田舎、山村、島、広い家、コンパクトな社宅、田舎家・・・
祖母の妹はそのうちなくなったらしく、小学一年の夏以後は泊りがけで遊びに行ったことはない。海辺の家での数日間、もっと短かったかもしれないが、夏になると思い出す。
孫娘も今の私くらいになって、とうに亡くなったおばあちゃんのことを懐かしく思い出すことがあるだろうか。いや、思い出さなくっても、自分をかわいがってくれた人がいたことが心の宝になり、どんな時もくじけずに生きて行けますように。なあんてことを、孫娘の電話でふと考えた。
下の子は待合室の重いおもちゃを持ちあげて、立っていた。まだ一歩くらいしか歩けないのに。私が子供のころ、まだ叔父、叔母の一部は未婚で家にいて、とても賑やかだった。大学生の叔父に私は平仮名を教えてもらったのだった。などとつまらないことが次々浮かんでくる。
今朝のテレビ見たら、お盆に夫の実家へ帰りたくない嫁の立場の人と、迎える側の姑の言い分を面白おかしく取り上げていた。
そりゃお互い気楽なのがいいに決まっている。でも子供の立場にすれば、違う場所の違う暮らし、それに触れるだけで、たくさんのことを学ぶと思う。何も同居しているわけではなく、一年の数日、夫の家に行くのだから、たまには頑張る親の姿を見せるのも必要と思います。
息子一家を待ち構えていて、自分は息子や孫と話し、お嫁さんに台所全部任せるなんて姑、今の時代に絶滅危惧種でしょ。それとももう絶滅したかな???
嫌結膜炎がまだ続いていて目が痛い。そろそろ寝ます。