初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

本物そっくり

2009年03月21日 18時32分05秒 | Weblog
  テレビ生放送時代のことを書きます。
生放送時代は、その番組はそのスタジオだけで済ませなくてはなりません。
 生ドラマの場合は、そのドラマで必要なセットを全部建てておかなくてはなりません。あまり大きなセットだと入りきれません。

 セットを建てる大道具係は、劇場の舞台の経験者でしから、劇場スタイルがテレビに持ち込まれたことになります。劇場の舞台は早い場面転換などありますから、劇場独特の工夫があります。セットもユニット化されて、平台、箱足、など。寸法は五寸、一尺、二尺、三尺、六尺、一間など尺貫法でした。

 劇場の舞台は約束事で成り立っていますから書き割りでも不自然には感じられませんが、テレビの画面ではどうでしょうか。お城のセットが作られました。見ると城の石垣が書き割りで済まされていて驚いたことがありました。「金色夜叉」の貫一、お宮の熱海の海岸、白砂青松のセットは苦手です。

 やがて、VTRがテレビに導入されて、セットの建て替え時間もとれるようになりました。鼠小僧の屋根上の立ち回りでは、本瓦を使って大屋根だけのセットを作ったことがありました。

 庭のセットの庭石は本物ですと重くて大変です。大きな軽石にスプレー塗料を吹き付けて本物そっくりにつくられるようになりました。軽石ですからセッティングの持ち運びが楽になりました。そのほか材料として軽いプラスチックも多用されました。
 なんと発砲スチロールに塗料をかけて、兎に角、軽い庭石ができました。これは傑作でした。

 俳優さんの衣装替えで、現場か一休みしていました。

 ある若いスタッフが、本物そっくりの庭石を蹴飛ばしました。その石に限って本物でした。

 その子はかわいそうにその場にうずくまってしまいました…。 



 

エレクトーン

2009年03月20日 18時24分13秒 | Weblog
  今日は、孫娘の「エレクトーン発表会」を聞きに行きました。
各教室からの大勢の参加で日頃の成果を発表しています。

 最新のエレクトーンは、いろんな音が作れるそうです。舞台には四、五人の生徒さんが、ずらり並んだエレクトーンを演奏します。
見事なハーモニーで、低音のペースや打楽器などのリズムは先に録音されていて、メトロノーム代わりになるのでしょうか。誰がどのパートを演奏しているか素人の私にはわかりません。

 エレクトーンが出現するまでは、アメリカのハモンドオルガンでした。
ハモンドオルガンには、名演奏者が世界に多くいます。

 ジミー・スミスはブルーノートレーベルのLPで、エセル・スミスは女流オルガニストで有名です。また、ワルター・ワンダレーの「サマー・サンバ」はヒットしました。
 カウント・ベイシーは「カンサス・シティー7」のなかでスインギーなソロを展開していました。

 わが国では、連続ラジオドラマ「君の名は」で毎回「町の銭湯の女湯を空にしながら」、このドラマの伴奏として古関裕而がハモンドオルガンを演奏してこの楽器が日本中に知れ渡りました。また古関裕而はプロ野球の阪神球団の応援歌「六甲おろし」の作曲者でもあります。

 ハモンドオルガンはコイルの前に磁界を持たせた円盤をシンクロナスモーターで回転させて音源を作ります。出来た波形はあまりキレイではないのでしょう。この高調波を含んだ波形がいろいろと細工しやすかったのではないでしょうか。色々の音色が生まれました。しかし、スイッチを入れてすぐ演奏ができなくて、アイドリングが必要でした。

 エレクトーンは純電子楽器ですから出てくる波形がきっときれいなのでしょう。いろんな音色を作るのに苦労されていると思います。

 エレクトーンに世界的なスター・プレーヤーが現れて、エレクトーンの名を世界に広めてほしいと夢見ています…。




聖女の救済

2009年03月19日 18時20分03秒 | Weblog
  東野圭吾の「聖女の救済」を読んでいます。去年のベストセラーです。
東野圭吾は「放課後」で江戸川乱歩賞を受賞しています。毎年、初秋に発表される乱歩賞作品は読むことにしています。乱歩賞受賞をきっかけに精力的に作家活動をしている人もいます。、森村誠一の「高層の死角」は素晴らしい作品でした。その後、ベストセラー作家です。西村京太郎「天使の傷痕」は社会派推理小説でした。乱歩賞受賞後は、方向転換してトラベルミステリーの十津川軽侮のシリーズでベストセラー作家です。

 東野圭吾が私と同じ電気工学科出身というのに親近感をいだきます。ジャズピアニストのハービー・ハンコックも電気工学科出身で、ジャズクラブでアルバイトにピアノを弾いているうちにプロのピアニストになったそうです。

 この東野圭吾の「聖女の救済」は「ガリレオの苦悩」「探偵ガリレオ」でお馴染みの草薙刑事と後輩の女性刑事、内海薫と、物理学者の湯川が出ています。推理小説の基本の謎解きです。会社社長の真柴義孝がマンションで一人で毒殺されていたところから始まります…。

 探偵小説や推理小説は、不可能な謎解きから始まりました。外国ものではディクスン・カー、エラリー・クイーンなどが好きでした。ストーリーの最初の方から犯人を出しておくのが推理小説のセオリーなのだそうです。犯人が大きな犯罪を犯しておきながら、ばれないかとビクビクすることもなく、すまして登場していることに読者は不満に思いました。そして純粋の謎解きからだんだん離れていきました。

 松本清張の「点と線」など生きた人間を描く社会派が出てきました。その後、一時、横溝正史の謎解き探偵小説、金田一耕助ものがブームになりました。昔の探偵小説を読んでいない若者に新鮮に映ったのでしょう…。

 「秘密」「容疑者Xの献身」を読み終わったいま、東野圭吾の今後の作品から目を離すことができません…。



 

ヘリコプターでの撮影

2009年03月18日 18時41分34秒 | Weblog
 私はかって「スパイ小説」」冒険小説」に凝ったことがありました。
イアン・フレミングの「007シリーズ」から始まって、ケン・フォレット「針の目」。ジョン・ル・カレ「寒い国から帰ったスパイ」。フレデリック・フォーサイス「ジャッカルの日」などです…。

 グレイト・トーマスの「ファィア・フォックス」はロシアの新鋭戦闘機を盗むというストーリーで、映画ではクリント・イーストウッドが出ていました。スパイ物が映画になると映像的にどう工夫がされているのか興味があります。

 トム・クランシーの作品も大体読みましたが、映画化された「レッド・オクトーバ゜ーを追え」もよく出来ていました。映画ではロシアの潜水艦の艦長ショーン・コネリーが、艦橋で双眼鏡を持ったバストショットから始まります。カメラが後ろに下がっていきますと、潜水艦のフルショットになります。カメラはまだ下がってゆきます。やがて、潜水艦を護衛する艦隊全体が俯瞰で写ります。ヘリコプターを使ったのでしょうが見事なショットでした。このワンカットに何日かけたのでしょう。

 ヘリコプターを使った映画にアラン・ドロン、リノ・バンチュラ、ジョアンナ・シムカスの「冒険者たち」があります。ある島の城の屋上で銃撃戦があって、城の屋上からカメラは引いていきます。城の周りを写しながらやがて、島が小さくなるショットで、エンドタイトルがスーパーインポーズされました。

 ジョン・ポールの「夜の大捜査線」(夜の熱気の中で)では、小説もなかなかよかったのですが、映画も黄色いサングラスをかけた町の保安官ロツド・スタイガーと町の駅に降り立った黒人刑事のシドニー・ポワチエとのやり取りは良かったです。
 事件が解決して走る列車の窓にシドニー・ポワチエのミディァムショットが写されます。カメラが下がってゆきます。列車全体がだんだん遠くに離れていくとクインシー・ジョーンスの音楽がかぶさります。

 ヘリコプターを使った移動撮影は段取りや準備に大変でしょうが私は大好きです。


 

独身の主人公

2009年03月17日 17時53分15秒 | Weblog
 平岩弓枝の「御宿かわせみ」は、ヒーローの神林東吾、ヒロインの庄司るいが大川端で旅篭「かわせみ」を営んでいて、女中頭のお吉や出入りの同心、畝源三郎、蕎麦屋のおやじなどを交えて事件を解決していく短編小説です。ベストセラーでした。シリーズで続きましたので大河小説のようでした。

 小説で畝源三郎が祝言を挙げました。すると、熱烈なファンからのお祝いの手紙が届いたと作者のエッセーで読みました。当然、長男の源太郎が生まれますと、ファンレターです。そのうち、源太郎君は××歳ですねとまた、ファンレターです。

 東吾とるいが祝言を挙げまして千春という娘がうまれました。
 こうなると、小説のなかとはいえ子供が成長してくると、その親は歳をとります。

 このあと、どうするのかと心配して読んでいましたが、明治維新が近付いてきたところで、シリーズの小説は終わりました。

 作者は一休みのあと「新・御宿かわせみ」と復活させています。

 佐伯泰英が時代小説に転向して初めての作品、剣豪小説「密命」はシリーズにする予定がなかったのが、ベストセラーになり、シリーズ化されました。

 剣豪の金杉惣三郎の寒月霞斬りと亡き妻との長男清之助の霜夜炎返しを武器に話を進めていきます。

 作者はシリーズにする予定でなかったので、息子を登場させてしまったのでしょうか。清之助をりっぱな若者に成長させて、諸国を武芸の修行に比重を置いているようです。この清之助に恋人ができましたがどうするのでしょう…。

 内田康夫の浅見光彦シリーズの、浅見光彦はブルゾン姿の33歳のルポライターですが、若い女性が苦手という設定で、結婚しない限り、いつまでも33歳ですから、読者も安心です。

 小説家はヒーロー、ヒロインを生み出して人気が出てくると作者を離れて独り歩きするようになるのでしょうか…。小説のヒーロー、ヒロインはいつまでも若くて独身でいてほしいものです。


東映映画村

2009年03月16日 18時06分58秒 | Weblog
  JR山陰線を嵐山から京都に向かう途中の花園駅あたりで、車窓右側に東映撮影所のお城のオープンセットが見えていました。東映が日本でシネマスコープ第一回作品、「鳳城の花嫁」のときの拵えたものです。長い間建てられたままで、他の作品でも使われていました。当時の東映は上映作品が次々とヒットしていました。一週間で二本立ての興行でしたから、作品をどんどん作らなければなりません。第二東映までできました。撮影所の周りにオープンセットが増えていきました。

 太秦に、東映、大映、松竹と撮影所が集まっていて、近くの花園にフィルム現像の東洋現像所がありました。日本のハリウッドと呼ばれていました。

 東映の向かいにあった大映は、黒澤明の「羅生門」では壊れかけた羅生門のオープンセットが長い間建てられていました。黒澤監督が雲の形が気に入らないとかで、撮影日数が伸びたためです。次に「大仏開眼」で、大仏建立の話ですから、大仏様がオープンセットにできました。話の内容で主演女優の京マチ子が、大仏の手のひらで踊る場面がありましたから、頑丈で立派な仏様でした。

 撮影所めぐりのバスツアーで見学者のお年寄りが、このセットの大仏様の前で、両手を合わせてお賽銭を投げられました。会社では面喰っていました。

 東映は広大なオープンセットでテレビ映画なども多く作られました。その後、本編の映画制作は縮小されて、あまったオープンセットを利用して、「東映映画村」を作りましたところ、大評判、ヒットしました。

 この「東映映画村」の好評なことにヒントを得て、大阪に「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」ができたのでしょう…。

写真展

2009年03月15日 20時49分37秒 | Weblog
  写真集団の白黒の写真展ではパネル張りの作品が一般的でした。
 展示する写真作品の大きさに合わせた木枠にベニア板を張ったパネルを作ります。ちょうど絵画のキャンバスのようなものです。それに写真作品を貼り付けて展示していました,

 木枠を頑丈に作ります。仕上げの終わった濡れた写真をこのパネルに貼り付けます。写真が乾いてくると印画紙の収縮する力に負けて、パネルがそっくりかえりまして、みっともないことになります。
 写真材料店でいろいろなサイズのパネルは売っていましたが、独特のトリミングをした写真のパネルは自分で作らなくてはなりません。

 展覧会がカラー作品になってからカラープリントがRCペーパーになり、白黒作品のようなパネル張りができなくなりました。パネルの真中にカラー作品を貼り付けて、作品の寸法に窓を開けた厚紙でカバーして展示していました。

 カラーになって,白黒時代の「適正露出」の考え方ができなくなりました。
 カメラ店に置かれているノーリツの自動現像機、プリンターは決められた薬液と現像時間が守られます。プリンターの印画紙への露光も半自動ですから、カメラの露出はその機械の発色が良いように合わせなくてはならなくなりました。

 白黒時代は自分で暗室処理をしていたアマチュア作家は、カラーになってから、カメラで写すだけで、後の処理は全部人任せだから、作家とはいえなくなった。と、私に嘆いていました。

 最初、カラー作品の展覧会ではパネルに白枠窓で展示していましたが、いつのまにか、額縁に入れるようになりました。展覧会の主催者の考えでガラス入りの額縁、ガラス抜きの額縁で展示するようになりました。

続・カラーフィルム

2009年03月14日 17時54分32秒 | Weblog
  カラーリバーサルフィルムは1コマづつ厚紙にマウントしてあります。このマウントをスライドプロェクターに装填してスクリーンに映写します。アメリカのホームパーティで流行しました。

 35㍉カラーリバーサルより少し大きいベスト判の4×4サイズがフィルムが大きいだけカラーに有利と「スーパースライド」との名称で流行りました。こり4×4判は35㍉スライドマウントと同じ大きさでした。ローライ4×4はそのために作られたカメラでした。

 カラーリバーサルでプロジェクターに投影してカラーを楽しむより、白黒写真と同じように色彩写真として手に持って楽しみたいものでした。

 やがて、カラーネガ・ポジ方式の紙焼きのカラープリントが出てきました。

 しかし、リバーサルの色再現を愛用する人も多く、リバーサルから紙焼きのカラープリントをする人は大変でした。

 カラーリバーサルからインターネガという中間のカラーネガフィルムを作ります。最終のプリントの大きさによって、中間のインターネガの大きさが決まりました。全紙判のプリントを作る時はインターネガは4×5サイズになりました。

 展覧会は黒白印画の作品でしたが、ボチボチカラーの作品も出品されるようになりました。
 
 チバクロームというポジ・ボジ方式が出現しました。リバーサルからダイレクトにプリントする画期的なものでした。
 これで、リバーサルから簡単にプリントできることになり、展覧会では一段とカラー作品が増えました。

 いまだに、展覧会にリバーサルから大きな作品を出品するのに、大きなインターネガを作る人もいます。

 いつの間にか、カラー作品だけの展覧会になってしまいました。

 記念写真もすっかりカラー写真になり、白黒写真はなくなりました。
街のカメラ店では白黒印画の仕上げをしなくなり、カメラ店から業者に出すようになりました。
 

カラーフィルム

2009年03月13日 17時13分18秒 | Weblog
   銀塩白黒写真が全盛のところに、コダックからリバーサル・カラーフィルムが入ってきました。
  現像の段階で色を注入する外式の「コダクローム」とフィルム自体に色を持っている内式の「エクタクローム」がありました。
 私は時々35ミリ「エクタクローム」を使用していました。

 当時の日本ではまだ内式のカラー現像ができませんでしたから、アメリカへ送らなくてはなりませんでした。箱に入っていた黄色の袋に撮影済みのフィルムを入れて、郵便局から航空便で送りました。
 仕上がりが良いとの評判のハワイの現像場、また、ロチェスターの本社に送ったこともありました。

 行きは航空便ですが、現像されて送りかえされてくるときは、船便です。手元に戻ってくるのにひと月近くかかりました。なにを撮ったのか忘れてしまうことがあります。しかし、包装を解いて、紙製の枠にマウントされた絵を見るのは楽しみでした。

 やがて、日本でもコダック認定の現像場ができて、現像済みリバーサルのマウントが手元に返ってくるのが早くなりました。

 アメリカにもいろいろと現像場で出来てきたのでしょう。アメリカで現像料込みのフィルムの値段はいけないと公取委からの勧告でフィルム代金から現像料が引かれて販売されるようになりました。

フィルムの外箱に、

not Include

と、書かれていて、後の日本製のカラーフィルムも
 
 フィルムの現像代は含まれていません

と記されています。

 写真に色彩が表現できるのは嬉しいのですが、出来上がった写真をビューアーやスライドプロジェクターでしか見れないのが残念でした。

 早く紙焼きのカラープリントができないかと心待ちにしていました。

     続く…



適正露出

2009年03月12日 17時48分59秒 | Weblog
  若い時の私は「銀塩白黒写真の時代」、町の写真クラブに所属していましたから、毎月、月例会に写真を出品しなくてはなりませんでした。
 クラブには自分では一切暗室処理をやらない人、フィルム現像だけはしないという人などもいました。

 私は撮影したフィルムの現像液はだいたい決めていました。
人によっては、DK-20など微粒子現像をやる人もいます。
私は、D-76、コダックのマイクロドールXなどでしたが、最後には英国のプロミクロールを愛用しました。この現像薬はフィルムの感度を犠牲にすることがなく、逆に感度を若干上げることができる微粒子現像薬でした。

 フィルム現像が終わって、長いフィルムを見ますと、なかなか良いネガが散見されます。引き伸ばしが楽しみなネガの上がりです。

 ネガの上がりが良かったのに引伸ばしてプリントしますと、あまり芳しくないときがあります。これを、ネガシャンといいました。各社のフィルムの中には「ネガシャン」になりやすいものもありました。

 シャンとはドイツ語で「美しい」という意味です。妙齢の美人を「シャン」といいました。後姿が美しい人を「バックシャン」ともいいました。

 今は「イケメン」というのでしょうか…。

 微粒子現像で薄茶色の薄いネガで見事なプリントを作る人、私は、暗室が得意ではなかったので、肉の乗った濃い目のネガが引伸ばしが楽なのでそのように撮りました。

 それぞれ、暗室作業が楽にできる濃度のネガを作るように努力します。
その好みの濃度のネガが出来るように露出を与えるのがその人にとっての適正露出といえます。

 予備に二、三枚露出を変えて撮ります。露出を変えるのには、シャッタースピードを変えるよりも、絞りを変えた方がよく利きました。昔のカメラは機械式のシャッターでしたからどこまで正確に動作するかわかりません。その点、レンズの絞りは入射する光量を変えますからよく利きました。

 暗室作業が楽なようなネガを作ることに心がけて「適正露出」で写真を撮りました。