経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

2023-01-19 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 勝海舟 幕末の立役者


 かつ かいしゅう
 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)


 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。

 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。

 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。

 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。

 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。

 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。

 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。

 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。

 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。

 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。

 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。


 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。

 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。

 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。

 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。


 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。

 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。

 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。

 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。

 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。

 

■ 明恵 日本茶の普及

 

 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗


 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。


【Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。

 

■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖


 どうげん
 正治2年1月2日(1200年1月19日)-建長5年8月28日(1253年9月22日)
 諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄


 鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖で、同宗旨では高祖と尊称されます。

 13歳で出家し、比叡山で研学し、その後栄西に臨済宗を学んでいます。24歳で入宋し、曹洞禅の秘奥を究めました。

 29歳で帰朝し、諸事を建立し、その一環として永平寺の建立があります。

 「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある」という修証一等、只管打坐の禅を伝えました。

 著書『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた

 

■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任


 かんざんえげん
 建治3年(1277年)-正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)


 鎌倉時代末期から南北朝時代、信濃国に生まれた僧侶で、朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられました。また、明治天皇からは「無相大師」と追諡されています。

 1307年に、南浦紹明の鎌倉建長寺に入り、慧眼(えげん)の法名を授かり、鎌倉に滞在した後に帰郷しました。

 京都大徳寺に遷って宗峰に師事し、1329年に関山の号が与えられ、慧玄と改名しました。1342年に関山は妙心寺開山となりました。

 その禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、「枯淡な禅風」をもって修禅に専念したといわれています。

 関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像(後世に作成された物はある)も遺筆もほとんど残されていません。2006年に、臨済宗妙心寺派の寺の蔵より肖像画が発見されましたが、確認されていません。

 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山といいます。本尊は、釈迦如来です。開基(創立者)は花園天皇で、寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)です。

 日本の臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺が妙心寺派で占めています。三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭があり、一大寺院群を形成し、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれているほどです。

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

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【きょうの人】 0118 ■ 牧野富太郎 「植物学の父」■白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

2023-01-18 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0118 ■ 牧野富太郎 「植物学の父」■白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

 

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■ 牧野富太郎 「植物学の父」と呼ばれた植物分類学者
 まきの とみたろう
 1862年5月22日(文久2年4月24日)-1957年(昭和32年)1月18日)
 日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。位階は従三位。

 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威です。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。
 小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定されています。
 94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製しました。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数えます。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以です。
 NHK朝の連続小説でも取り上げられました。多くの学生を指導し、後進の植物学者を育成し、学生たちに自然の美しさや尊さを伝えることにも注力しました。

【chatGPT】
 牧野富太郎は、日本の植物学者であり、日本の植物相の研究に多大な貢献をしたことで知られています。彼は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍し、日本の植物学の発展に大きな影響を与えました。
 牧野は、自然史博物館の助手としてキク科の研究を始め、その後、東京帝国大学の植物学教室で研究を続けました。彼は、日本の植物を収集し、分類し、記載することに生涯を捧げ、日本の植物相に関する多くの重要な研究成果を生み出しました。
 牧野が最も知られているのは、彼が編纂した「新分類 牧野日本植物図鑑」であり、これは日本の植物の総合的な図鑑として広く利用されています。彼はまた、日本各地の植物相の調査を行い、地域ごとに植物の生態や分布を記載した書籍を出版しました。
 牧野はまた、多くの学生を指導し、後進の植物学者を育成しました。彼は、学生たちに自然の美しさや尊さを伝えることにも力を注ぎました。
 牧野は、植物の世界に対する深い愛情を持ち、植物が持つ生命力や美しさについて熱心に研究しました。彼は、植物の生態や分布についての知識を広めることに尽力し、日本の自然環境保全にも貢献しました。
 牧野は、日本の植物学界において、偉大な功績を残した人物の一人であり、彼の研究や業績は、今日に至るまで大きな影響力を持ち続けています。
 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

■ 勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧


 せいかんぼうげんち
 寿永2年(1183年)- 暦仁元年12月12日(1239年1月18日)


 鎌倉時代前期の浄土宗の僧で、号は勢観房、妙法院法印です。紫野門徒の祖でもあり、賀茂(かもの)上人とも呼ばれています。

 建久6年(1195年)、源智13歳、法然63歳のときに、法然の室に入りました。

 源智は、法然自筆の「一枚起請文」を生涯、首に懸け秘蔵していたと言われています。源智に帰依した河合(ただす)の法眼の所望に応じ、それを授与し、それによって「一枚起請文」として世間に流布することになりました。

 法然から、円頓戒の道具、本尊(南禅寺畔の西福寺)、現知恩院の地である大谷の坊舎、聖教などを譲られました。

 法然没後に生じた、天台宗の延暦寺衆徒が法然教団を弾圧した嘉禄の法難のために、大谷の坊舎は、法然の廟所を含めて荒廃してしまいました。京都における法然教団の維持に努めました。

 文暦元年(1234年)、奏聞を遂げ、四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜り、大谷の坊舎を「知恩院」として再興しました。

 建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子である良忠(浄土宗三祖)が、鎌倉から京にやってきます。その時の講義で、相違するところが全くなく符合しましたので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流しました。

 このような控えめな人ですが、知恩院の再興、後述の玉桂寺阿弥陀如来像造立への結縁活動など、法然没後の法然教団の維持に多大な貢献をしています。

 

■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖

 

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)


 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。

 

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■【きょうの人】 0117 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔

2023-01-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

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■ 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔


 ひゃくじょう えかい
 749年(天宝8載) - 814年2月10日(元和9年1月17日)
 諡号:大智禅師 宗派:洪州宗

 中国福州長楽県の生まれ。

 西山慧照の会下で出家し、衡山の法朝律師の許で具足戒を受けました。

 その後、馬祖より嗣法し、師の没後に、洪州百丈山(江西省宜春市奉新県)に住し、はじめて、律院から独立した禅院を設立しました。禅門の規範(清規)「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)」という禅宗独立の基礎を定め、自給自足の体制を確立しました。

 後世、叢林開闢(そうりんかいびゃく)百丈禅師と称して尊敬を得ました。

 1月17日は、百丈大智禅師懐海の没日です。毎年この日に法会が催しされます。

 元和9年(814年)1月17日に寂し、長慶元年(821年)に大智禅師と諡されました。

 

【Wikipedia】 百丈
 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。懐海は法諱。大智禅師と諡される。
 福建省福州長楽県の生まれ。俗姓は王氏であり、名族である太原の王氏の末裔であり、永嘉の乱の混乱を避けて、遠祖が福建に移り住んだものという。

 

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■【きょうの人】 0116 ■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖 ■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・

2023-01-16 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0116 ■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖 ■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・

 

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■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・


 尾崎紅葉(1868~1903)の代表作「金色夜叉」の中に、熱海の海岸で、主人公の貫一を裏切った恋人のお宮に「可いか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから」という名台詞があります。

  このことから夜の曇り空のことを「貫一曇り」と言います。

  1月17日は、熱海で「尾崎紅葉祭」が行われます。

  尾崎紅葉は「我楽多文庫」の発刊を機に分断で名前が知られるようになります。お恥ずかしいことながら、紅葉の作品は「伽羅枕」などの名前だけしか知りません。

  幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期文壇の重鎮の一人と言えます。

 

■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖


 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
   ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日


 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

  現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

  その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

  独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

  親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。

 

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■【きょうの人】 0115 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

2023-01-15 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

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■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革


 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)


 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで、1759宝暦8年12月27日、新暦では1月15日に寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

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■【きょうの人】 0114 慈覚大師円仁 最澄に師事し、天台の要旨を修める

2023-01-14 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0114 慈覚大師円仁 最澄に師事し、天台の要旨を修める

 

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■ 慈覚大師円仁 最澄に師事し、天台の要旨を修める


 えんにん
 延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日)
 諡号:慈覚大師 宗派:天台宗山門派


 天台宗延暦寺第三世座主、下野国都賀郡の生まれ

 一五歳にして比叡山に登り、最澄に師事し、天台の要旨を修めました。承和5年に入唐し、梵学密教を9年にわたり学び、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人として知られています。

 広智、義真等にも学ぶ、関係する寺院は、立石寺、毛越寺、中尊寺、大慈寺、延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれています。人々からは「円仁さん」と親しみを込めて呼ばれたそうです。

 著作に「入唐求法巡礼行記」があります。

 貞観6年1月14日に71歳で亡くなりました。


 700箇寺もの寺院で指導的な行動をとった慈覚大師の功績は、認めざるをえませんね。

 

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■【きょうの人】 0113 宗峰妙超 入滅 (大燈国師) 京都の大徳寺の開山

2023-01-13 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0113 宗峰妙超 入滅 (大燈国師) 京都の大徳寺の開山

 

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■ 宗峰妙超 入滅 (大燈国師) 京都の大徳寺の開山


 しゅうほうみょうちょう
 弘安5年12月7日(1283年1月7日) - 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日)


 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、一般には「大燈国師」の名で知られています。
 諱は妙超、道号は宗峰、播磨(兵庫県)の出身で、同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれました。

 朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられ、京都の大徳寺の開山でもあります。

 11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学びます。

 のちに禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明(大応国師)に参禅しました。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可を得ました。

 花園天皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。

 その際、妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配する事を申し出ますと、天皇はこれを承認し、妙超の一族である浦上為景にその旨を伝える綸旨を発行しています。

 建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となりますが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。

 師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属するといわれています。

 

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■【きょうの人】 0112 月読命 日本神話に登場する神様

2023-01-12 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0112 月読命 日本神話に登場する神様

 

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■ 月読命 日本神話に登場する神様


 ツクヨミ、ツキヨミ


 一般的には「ツクヨミ」といわれますが、伊勢神宮の月読神社では「ツキヨミ」と表記さます。

 日本神話に登場する神様です。後世では、一般には男神と考えられていますが、記紀では性別の記述はありません。

 古事記や日本書紀(両者をあわせて「記紀」という)においては、ツクヨミは、伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたと記されています。月を神格化した、夜を統べる神として考えられています。長女の天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたります。

、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]。

 古事記では、伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に、ツクヨミ(月)は右目から生まれ、他方の左目から生まれたのが天照大御神(太陽)と記されています。鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神(三柱の貴子)を成しています。


一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

 日本神話において、あまり登場せず、全般的に活躍に乏しいと思われます。

 

【経営コンサルタントの独り言】

 神様の名前の読み方は難しいですね。
 「月読」を「つきよみ」と読めれば「準合格」
 本当は、「つきよみ」は誤読なのでしょうが、その様な間違えをする人が多いために、やむを得ず「準合格」になってしまったのではないでしょうか。

 同じようなことが、「本日は、お越しいただきましてありがとうございます」というような例です。
 「いただく」は謙譲語ですが、これを丁寧語と誤用するひとがあまりにも多く、さすがのNHKも、「いただく」を丁寧語扱いすることを容認しているようです。
 ただし、アナウンサーには、正しい使い方を指示しているのか、最近、アナウンサーでこの誤用をすることはほとんどなくなったように思えます。
 ところが、台本にない、日常的な会話調の時に、ポロッとこの誤用が見られます。

 文法は、基本規則ですので、守りたいですね。
 かくいう私も、文法に弱く、しばしば間違いを犯します。

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■【きょうの人】 0111 ■ 太公望(呂尚) 「釣り人」の代名詞 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師

2023-01-11 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【旅関連情報 きょうの人】 0111 ■ 太公望(呂尚) 「釣り人」の代名詞 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師

 

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■ 太公望(呂尚) 「釣り人」の代名詞


 生没不詳

 呂尚(りょしょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国春秋時代・周国の軍師としてしられ、後に、斉の始祖として現在の山東省を中心にした国です。

 呂尚の姓は姜、氏は呂、字は子牙とか牙、諱は尚です。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれます。

 謚が「太公」であることから、斉太公、姜太公の名でも呼ばれます。

 呂尚は、釣りをよくしていたことから「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれ、日本では、釣り好きの人達を表す代名詞として使われます。

 

■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師


 あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら
 延喜21年1月11日〈921年2月21日〉- 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉


 平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖です。官位は、従四位下・播磨守です。

 幼少の頃については確かな記録はありませんが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に、陰陽道を学び、天文道を伝授されたといわれています。

 960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)でありました晴明は、村上天皇に占いを命ぜられていて、出世は遅れていましたが、占いの才能は既に貴族社会で認められていました。

 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を封ずる儀式を行っています。

 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになりました。

 花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めたようです。

 

■ 伊能忠敬 日本の正確な姿を明らかに

 いのう ただたか
 延享2年1月11日〈1745年2月11日〉-文化15年4月13日〈1818年5月17日〉

 江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
 通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。後に伊能家の養子に入ります。

 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。伊能家は、その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていました。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。

 田沼意次は、幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行しました。明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。

 佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もなかったのですが、ようやくやりたいという人物が表れ、江戸との交渉役に忠敬は江戸へ出向くなど、村のためにも活躍しました。

 忠敬は、名主にも推挙されたのですが、天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となり、そこでも手腕を振るいました。

 一方で、忠敬は暦学に興味を持っていて、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていました。長男景孝に家督を譲り、店の仕事を任せるようにしました。次のような家訓をしたためて景敬に渡したといわれています。
 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

 寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、忠敬は、当時の暦の権威者である高橋至時の弟子となりました。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。昔の中国の暦『授時暦』が、実際の天文現象と合わないことに気づいていた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したときに、唯一回答できたのが至時だったので師事したという話が伝えられています。

 忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたという逸話もあるほどです。師至時は、暦法『授時暦』やティコ・ブラーエやケプラーの理論にも通じていました。

 寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導につきました。その時に天体観測についても教えを受けたのです。観測技術や観測のための器具について精通していた重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったそうです。

 蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まり、アダム・ラクスマンが根室に入港して通商を求めたり、択捉島上陸事件などが起こったりました。瀑布は、蝦夷地の調査を行わせ、堀田仁助には蝦夷地の地図を作成させました。

 これらを契機として、忠敬にも命が下り、寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発したのです。辛苦の地図作成作業が始まり、蝦夷地から種子島などまで南下し、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国の測量を果たしました。間宮林蔵などの樺太測量などとあわせて、没後、『大日本沿海輿地全図』が完成され、国土の正確な姿を日本地図として明らかにしたのです。

 1818年、74歳の生涯を閉じました。1883年(明治16年)、正四位を授かっています。
 

 

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■【きょうの人】 0110 ■ 臨済 臨済宗の開祖 ■ 福沢諭吉生誕 ■ 島村抱月 新劇運動の先駆者 ■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成 

2023-01-10 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0110 ■ 臨済 臨済宗の開祖 ■ 福沢諭吉生誕 ■ 島村抱月 新劇運動の先駆者 ■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成 

 

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■ 臨済 臨済宗の開祖


  臨済義玄(臨濟義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師
 ?-867年


 1月10日(?~867年:咸通(かんつう)8年)は、臨済宗の開祖である臨済義玄の入滅日です。

  臨済は、諡号を「彗照禅師」といい、中国唐に生まれました。処々を廻り、経論を探り、戒律を究めた人です。

 臨済宗は、曹洞宗、日本達磨宗、黄檗宗、普化宗とともに日本の禅宗の一つです。

  歴史的にみますと、臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府との結び付きが強く、室町文化は臨済宗の文化と言っても良いほど大きな影響を与えました。

  京都五山も鎌倉五山も、全て臨済宗の寺院で占められていることからも臨済宗が強かったことがわかります。

  戦国時代に入りますと衰退気味となりましたが、江戸時代に白隠禅師によって再建されました。

 臨済宗の特徴の一つが、法嗣という師匠から弟子へと悟りを伝達することで、今日にまで受け継がれてきています。

【Wikipedia】臨済(りんざい)

 当初、経論を学ぶも満ち足りず、禅宗へ転向して黄檗希運に師事し、いわゆる黄檗三打の機縁で大悟した。
 その後河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府の臨済院に住み、興化存奬を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。
 その宗風は馬祖道一に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。

【歴史に学ぶ経営】 ウラを取れ

 臨済義玄は、中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖です。

 深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。

 彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。


「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。

 人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。

 私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。

 物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。

 あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。

 というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。

 私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。

 その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。

 そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。

 

■ 福沢諭吉生誕


 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)は、天保5年12月12日(1835年1月10日)に中津でうまれ、明治34年(1901年)2月3日に亡くなりました。

 諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に、彼が生まれたことにあります。

 武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者ですが、慶應義塾の創設者であることはよく知られています。慶應義塾だけではなく、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力しました。

 ジャーナリストとしての一面も持ち、大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞新聞『時事新報』を創刊することになりました。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長も務めています。

 安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学んだり、大阪適塾で頭角を現し、江戸に出てからは蘭学塾の講師を務めたりしています。この蘭学塾では、佐久間象山の影響も受け、洋式砲術の教授を受けたりしています。

 諭吉が横浜に出かけた折、オランダ語が全然通じないことから、英語の習得に力を入れたという有名な逸話があります。

 咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、勝海舟らと咸臨丸に乗り、渡米しています。

 文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚し、その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節が欧州各国へ派遣されるとき、翻訳方としてこれに同行することとなりました。

 これらの功績が認められ、昭和59年(1984年)に一万円紙幣表面の肖像に採用されていることも知られています。

 明治31年(1898年)に脳溢血で倒れ、明治34年(1901年)脳溢血が再発し、2月3日に東京で、享年67(満66歳没)の生涯を閉じました。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議しています。葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5000人の会葬者が葬列に加わったという記録が残っています。諭吉の功績や人徳が偲ばれます。(【Wikipedia】をもとに作成)

 

■ 徳川綱吉

 

 とくがわ つなよし
 正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日)

 徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。

 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。

 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。

 館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。

 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。

 綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。

 また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。

 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。

 犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。

 一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。

 綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm

 

■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成


 おざき こうよう
 1868年1月10日(慶応3年12月16日)- 1903年(明治36年)10月30日


 江戸時代に生まれた、明治時代の小説家で、本名は徳太郎といいます。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持っています。

 1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊しはじめました。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期の文壇の重鎮といえます。

 1897年(明治30年)から『金色夜叉』の執筆を始めましたが、未完のまま没してしまいた。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生を育ててました。

 小説だけではなく、俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称されました。

 

■ 島村抱月 新劇運動の先駆者


 しまむら ほうげつ
 1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日


 日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。

 イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。

 1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめ、芸術の拠点である「芸術倶楽部」(東京都新宿区)を創設しました。

芸術倶楽部跡、終焉の地(写真)
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/shinjukuku-kagurazaka/shinjuku-kagurazaka15.htm

 しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。

 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。
 

 

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■【きょうの人】 0109 ■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖

2023-01-09 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0109 ■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖

 

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■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖


 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
   ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日


 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

  現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

  その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

  独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

  親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。

 

浄土真宗(じょうどしんしゅう)とは

 大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つです。

 鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く「真実の教え」を継承し、法然の考えを展開させました。親鸞の没後に、その門弟たちが、親鸞の跡を継いで、教団として発展させました。

 古くは「一向宗(いっこうしゅう)」「門徒宗」などと俗称され、徳川家康や織田信長を手こずらせました。

 宗名問題が起こり、第二次大戦後は、真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」を称し、他9派も「真宗」を公称としています。

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■【きょうの人】 0108 ■ 徳川綱吉 悪名高い犬公方は本当か? ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 上杉景勝 上杉謙信の功績を継ぐ

2023-01-08 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0108 ■ 徳川綱吉 悪名高い犬公方は本当か? ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 上杉景勝 上杉謙信の功績を継ぐ

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 徳川綱吉 悪名高い犬公方は本当か?


 とくがわ つなよし
 正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日)


 徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。

 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。

 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。

 館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。

 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。

 綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。

 また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。

 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。

 犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。

 一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。

 綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm

 

■ 上杉景勝 上杉謙信の功績を継ぐ


 うえすぎ かげかつ
 1556年1月8日 - 1623年3月20日


  戦国時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人です。米沢藩の初代藩主となり、上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目となります。

  初名は長尾顕景で、同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めました。

  実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。

  会津藩120万石を領し、秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北しました。

 戦後、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となりました。(【Wikipedia】を基に作成)

 

■ 明恵 鎌倉時代前期の華厳宗の僧


 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗


 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。


【Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。
 

 

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■【きょうの人】 0105 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力 ■ 幡随意上人 徳川家康が浄土宗法論奉行役を命ず ■ ジャン・バティスト・セイ 経済学「セイの法則」

2023-01-05 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

 

  【きょうの人】 0105 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力 ■ 幡随意上人 徳川家康が浄土宗法論奉行役を命ず ■ ジャン・バティスト・セイ 経済学「セイの法則」

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ ジャン・バティスト・セイ 経済学「セイの法則」

 1767年1月5日は、フランス人 ジャン・バティスト・セイの誕生日です。経済学者で「セイの法則」が良く知られています。

【Wikipedia】ジャン・バティスト・セイ

 ジャン=バティスト・セイ(Jean-Baptiste Say、1767年1月5日 - 1832年11月15日)はフランスの経済学者、実業家。彼は自由主義的見解を持っており、競争、自由貿易、および事業上の制約の引き上げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。

 

■ 幡随意上人 徳川家康が浄土宗法論奉行役を命ず


 ばんずいい
 天文11年10月15日(1542年11月21日)- 慶長20年1月5日(1615年2月2日))


 戦国時代から江戸時代初期にかけての浄土宗の学僧で、紀伊(相模国という説もあり)の出身です。号は「白道演蓮社智誉(向阿)」

 9歳の頃から出家の志があり、11歳の歳には玉縄二伝寺(藤沢市所在)で出家し、幡随意と号しました。

 その後、鎌倉の光明寺で浄土教学を修め、武蔵国川越の蓮馨寺(れんけいじ)の存貞にも学びました。

 慶長6年(1601年)、徳川家康の命により江戸で浄土宗法論の奉行役を務め、翌・慶長7年(1602年)に京都百万遍知恩寺の33世住持となります。

 慶長8年1603年には、ふたたび家康によって招聘され、江戸神田駿河台に新知恩寺(のちの関東十八檀林の一つ幡随院)を開創しました。後に上州館林に善導寺を開き、中興開山となりました。

 慶長18年(1613年)徳川家康の命により九州に下り、キリシタンの改宗に力を尽くしました。和歌山の万性寺を開創後、慶長20年に入寂、74歳でした。(【Wikipedia】を基に作成)

 

■ 夏目漱石 (なつめ そうせき)


 1867年2月9日(慶応3年1月5日)- 1916年(大正5年)12月9日)

 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏

 江戸時代末期、牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)の出身で、大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びました。

 帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めました。

 イギリスへの留学はその後のことです。精神的な病気にかかったといわれますが、研究に没頭している様を見た人が、その生活態度を見て、「夏目発狂」という噂を流したとも言われています。

 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』など、次々と傑作を書いて行きます。

 その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載したりしています。晩年は、胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となりました。

。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。

 新宿の生まれた場所と言われるところには、現在でも「漱石公園」など、ゆかりの地があります。

 

■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力


 り こうしょう
 1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)


 中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。

 日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。

清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。

 李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。

 日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。

 大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。

 この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。

 波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。

 

 

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■【きょうの人】 2022年2月分は準備中です

2022-01-25 06:33:00 | 【話材】 きょうの人01月

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 現在、【きょうの人】は、準備中です。

 申し訳ございませんが、1日までお待ち下さるようお願いします。

 

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