【カシャリ!ひとり旅】 山口県萩市2 幕末・明治期に傑出した人物を輩出 木戸孝允・高杉晋作旧宅
若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。
旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。
写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。
何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・
他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。
名所旧跡 グロマコン 経営コンサルタントへの道
■■ 山口県萩市 幕末・明治期に傑出した人物を輩出
https://www.hagishi.com/
萩市(はぎし)は、中国地方西部、山口県の北部に位置する日本海に面した歴史の街です。江戸時代に、毛利氏が治める長州藩の萩城下町です。
日本海に面し、三方が山に囲まれていて、道路・鉄道・港湾の整備も遅かったため、山陽側の市町村と比べると発展が遅れ気味でした。新制の萩市として発足後の2005年国勢調査でも、人口の減少が目立ち、特に合併前の旧町村での減少傾向が目立ちました。
萩市に限らず、山口県は、幕末から戦前にかけて政財界に多くの傑出した人物を出しています。吉田松陰は、その中でも特筆すべき人のひとりです。
司馬遼太郎の幕末小説である『世に棲む日日』『花神』や、大河ドラマ『花燃ゆ』は萩市が舞台になっています。
萩市中心部は、日本有数の規模を誇るデルタ地帯です。旧・川上村から流れる阿武川(あぶがわ)は2つに分かれ、橋本川と松本川となって日本海に注いでいます。また、両河川からは新堀川、藍場川といった小河川が分岐し、市街を流れ、水の豊多町でもあります。
■ アクセス
空路 山口宇部空港または萩・石見空港経由
鉄道 新幹線新山口駅より高速バスまたはJR山口線湯田温泉または山口駅からバス利用
旅行社より配布された地図
萩市内ホテルより望む萩港
■■ 山口県 歴史を語る萩市 木戸孝允旧宅 ■■
明治維新の立役者木戸孝允の生家。藩医であった彼の旧宅は、国の史跡指定であり、木造桟瓦葺き2階建てです。孝允の誕生当時の部屋や庭園が残っています。
山口県萩市呉服町2 0838-25-3139 萩市観光課
無料 8:00~17:00 無休 駐車場なし
JR山陰本線東萩駅から防長交通バス県庁前行きで5分、萩バスセンターで防長交通バス循環西回りに乗り換えて4分、萩城城下町下車すぐ
■ 木戸孝允 幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家
きど たかよし
1833年8月11日(天保4年6月26日)- 1877年(明治10年)5月26日)
号は松菊、竿鈴
幕末の長州藩士、勤皇の志士、明治維新の元勲として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられます。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍しました。
長州藩藩医和田家の生まれですが、7歳で同藩藩士桂家の養子となりました。1849年に吉田松陰の門弟となりました。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学なども学んでいます。
1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となりました。
1864年の池田屋事件及びその直後の禁門の変により、但馬出石で8か月の潜伏生活を余儀なくされました。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜りました。
1866年には藩を代表して薩長同盟を締結しています。
新政府成立後には、政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任しました。
1868年(慶応4年=明治元年)に、五箇条の御誓文の起草・監修にあたり、明治維新の基本方針を定めた他、版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たしたのです。
1871年には岩倉使節団に参加し、諸国の憲法を研究し、1873年に帰国したのちはかねて建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求しました。内政優先の立場から岩倉具視や大久保利通らとともに西郷隆盛の征韓論に反対し、その結果、西郷が下野することになりました。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と死の直前に言い残したといわれています。
憲法制定を建言していましたが、富国強兵政策に邁進する大久保主導政権に批判的で、その他の事情もあり、参議を辞しました。晩年は政府内で、孤立しがちで、その後、病死しました。
木戸孝允旧宅
木戸孝允旧宅
■■ 山口県 歴史を語る萩市 高杉晋作旧宅 ■■
長州藩の200石の中級武士の家に生まれ育ち、倒幕運動を積極的に押し進めた高杉晋作の旧宅です。平屋建ての民家には、写真や書が展示され、庭には自作の歌碑があります。
山口県萩市南古萩町23 083-22-3078
大人 100円、中・高校生 50rmm円 小学生以下 無科
8:00~17:00(12~3月は9:00~16:00) 予約により閉館時間延長可
不定休(予約が望ましい)
駐車場なし
JR山陰本線東萩駅から防長交通パス県庁前行きで5分、萩バスセンターで防長交通バス循環西回りに乗り換えて5分、萩械外堀入口下車、徒歩3分
■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士
たかすぎ しんさく
天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉
幕末長州藩の尊王攘夷志士として久坂玄瑞等とともに活躍した武士です。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を討幕運動に方向付けしました。
文久元年(1861年)には、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し、江戸に渡りました。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしました。その年に、東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。
文久2年(1862年)に、藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情などを見聞して7月に帰国しました。
尊王攘夷(尊攘)派が台頭しますと、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。
文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。
文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎますと、長州藩は関門海峡における下関戦争で外国船砲撃を行い、惨敗します。晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成します。
文久4年(1864年)、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害しました。英仏米蘭4か国連合艦隊が下関砲台を占拠、晋作は和議交渉を任され、ギリギリの線で交渉を成立させました。
幕府の権威が失墜し、慶応3年(1867年)に大政奉還、高杉晋作は、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。
リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm
■ カシャリ! ひとり旅