私は1月生まれですが、誕生日が近づくと思いだす事件があります。もう40年以上まえのことですが、1969年の私の誕生日に、東大安田講堂に機動隊が入り、一日中テレビ中継があり、学生運動の一つの節目となりました。
我々団塊の世代前後は、学生運動世代でもありました。私はこの年に卒業しましたので、まさにこの真っ只中を過ごしたことになります。学生運動については、私のあくまで個人的な記憶・感想ですので、正確なものではありません。学生の文化的活動も学生運動と言えますが、ここでは除きます。
近代の学生運動は、1960年の安保闘争で一つの形ができたと思います。これはまだ私は何の興味もないころの話で、先輩からいろいろ聞かされていました。そのころの学生自治会・全学連(懐かしい言葉です)は共産党系の民青がほぼ握っていましたが、共産党を追い出された活動家・いわゆるブントが主導権をとった学生運動でした。これは学生だけでなく市民運動も加わり、大きな活動となったようです。この後しばらく学生運動は下火になったようです。
次の大きなうねりは、1968年前後の私の時代になります。発端は国公立大学の授業料値上げ反対や、医学部のインターン制度廃止問題といったそれほど大きなものではなかったと思います。これにベトナム戦争反対運動や、成田闘争が加わり、全国的に広がっていきました。学生組織としても、一時民青が取り戻していたのですが、ブントだけではなく、中核・革マルといった多くの派閥が手を結び全共闘闘争へと発展していきました。
私はどこの派閥にも属さず、ほとんど活動もしないノンポリ(非政治活動の意味か?)でしたが、自然にこの動きに巻き込まれていきました。といってもデモの尻尾についてうろうろしたり、機動隊に追われて逃げ回る程度でした。最後のころは、機動隊に捕まった仲間を、警察に引き取りに行ったりしていました。この全共闘という組織は、手を組んだといってももともと仲が悪く、すぐ衝突していました。これがこの時期の学生運動の特徴の一つの内ゲバです。
なかなか本論に入れませんので、次回にします。
我々団塊の世代前後は、学生運動世代でもありました。私はこの年に卒業しましたので、まさにこの真っ只中を過ごしたことになります。学生運動については、私のあくまで個人的な記憶・感想ですので、正確なものではありません。学生の文化的活動も学生運動と言えますが、ここでは除きます。
近代の学生運動は、1960年の安保闘争で一つの形ができたと思います。これはまだ私は何の興味もないころの話で、先輩からいろいろ聞かされていました。そのころの学生自治会・全学連(懐かしい言葉です)は共産党系の民青がほぼ握っていましたが、共産党を追い出された活動家・いわゆるブントが主導権をとった学生運動でした。これは学生だけでなく市民運動も加わり、大きな活動となったようです。この後しばらく学生運動は下火になったようです。
次の大きなうねりは、1968年前後の私の時代になります。発端は国公立大学の授業料値上げ反対や、医学部のインターン制度廃止問題といったそれほど大きなものではなかったと思います。これにベトナム戦争反対運動や、成田闘争が加わり、全国的に広がっていきました。学生組織としても、一時民青が取り戻していたのですが、ブントだけではなく、中核・革マルといった多くの派閥が手を結び全共闘闘争へと発展していきました。
私はどこの派閥にも属さず、ほとんど活動もしないノンポリ(非政治活動の意味か?)でしたが、自然にこの動きに巻き込まれていきました。といってもデモの尻尾についてうろうろしたり、機動隊に追われて逃げ回る程度でした。最後のころは、機動隊に捕まった仲間を、警察に引き取りに行ったりしていました。この全共闘という組織は、手を組んだといってももともと仲が悪く、すぐ衝突していました。これがこの時期の学生運動の特徴の一つの内ゲバです。
なかなか本論に入れませんので、次回にします。
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