先日、4月15日は、父の誕生日でした。
1940(昭和15)年生まれの70歳。
昭和を生きた人たちは、波瀾万丈の人生が多いようです。
父武久は、金太郎とミチエの長男として生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父そして妻(ミチエ)をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はありません。
祖母ミチエやおばさんの話によると、
父は、金太郎からよく肩車をしてもらっていたそうです。
出征の日も最後の肩車をしてもらい、
「父ちゃんといっしょに行く!」と言って泣きながらしがみつき、離れなかったそうです。
1945(昭和20)年、5月。
終戦3ヶ月前、金太郎は、東北沖の輸送船に乗りこんでいたところを撃沈され、帰らぬ人となりました。
高校3年生の時には、金太郎亡き後の父がわりとして育ててくれた鶴松もこの世を去ります。
灘の酒造会社に就職が決まっていたにもかかわらず、
家や家族をまもるために平礒に残り、以来半世紀にわたり農業一筋に生きてきました。
新しい家庭を築き、家を建て、そしてお墓をうつし改葬するなど、
1つ1つ着実な人生を築いてきました。
私たち子どもにとっては、寄りつけないような厳しさがありましたが、
私の子どもにたいしては、やさしいおじいちゃんなのです。
平成になりはや22年。
昭和という響きさえ、遠い過去のように聞こえます。
激動の昭和を生きてきた人たちには、
悲しさと強さとやさしさが感じられます。
岬人(はなんちゅう)
1940(昭和15)年生まれの70歳。
昭和を生きた人たちは、波瀾万丈の人生が多いようです。
父武久は、金太郎とミチエの長男として生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父そして妻(ミチエ)をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はありません。
祖母ミチエやおばさんの話によると、
父は、金太郎からよく肩車をしてもらっていたそうです。
出征の日も最後の肩車をしてもらい、
「父ちゃんといっしょに行く!」と言って泣きながらしがみつき、離れなかったそうです。
1945(昭和20)年、5月。
終戦3ヶ月前、金太郎は、東北沖の輸送船に乗りこんでいたところを撃沈され、帰らぬ人となりました。
高校3年生の時には、金太郎亡き後の父がわりとして育ててくれた鶴松もこの世を去ります。
灘の酒造会社に就職が決まっていたにもかかわらず、
家や家族をまもるために平礒に残り、以来半世紀にわたり農業一筋に生きてきました。
新しい家庭を築き、家を建て、そしてお墓をうつし改葬するなど、
1つ1つ着実な人生を築いてきました。
私たち子どもにとっては、寄りつけないような厳しさがありましたが、
私の子どもにたいしては、やさしいおじいちゃんなのです。
平成になりはや22年。
昭和という響きさえ、遠い過去のように聞こえます。
激動の昭和を生きてきた人たちには、
悲しさと強さとやさしさが感じられます。
岬人(はなんちゅう)