喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

法要

2010-05-05 | ブログ
 5月4日の祖父金太郎、祖母ミチエの法要では、
おおぜいの方々が集まり、供養していただきました。

 平礒の人口45人に近いくらいの集まりとなり、
ありし日の姿を偲び、
見たことのない姿に想いをはせました。

 さまざまなお話をしながら、
そのつながりや絆を強くできたように思います。

 中学校卒業後、大阪に大工修行に出られた70歳をこえた中野明徳おじさんも
たいへん喜んでいました。
何年経っても、いくつになっても、
ふるさとというものは、色あせないのかもしれません。

「ふるさとに錦を」という言葉を聞きますが、
「ふるさとが錦」なのです。

           岬人(はなんちゅう)

 

 

川の流れのように ~祖母の人生より~

2010-05-05 | ブログ
 祖父金太郎、祖母ミチエの法事では、
写真をスライドショーで見ながら、それに合った曲を流しました。

 祖母ミチエの時には、
美空ひばりの「川の流れのように」を。

 祖父金太郎から送られた手紙の中に
妻を気づかう句が詠まれていました。

「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」

「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきます。
 
 残った祖母ミチエは、武久・千鶴子の2人の幼子を育てながら、
舅鶴松の世話をしながら、おだやかに、たくましく生きぬいてきました。
 その生き方、人生がまさに「川の流れのように」そのままの気がしました。

(1) 知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道
  振り返れば 遥か遠く 故郷が見える
  でこぼこ道や 曲がりくねった道
  地図さえない それもまた人生
  
  ああ 川の流れのように ゆるやかに
  いくつも 時代は過ぎて
  ああ 川の流れのように とめどなく
  空が黄昏に 染まるだけ

(2) 生きることは 旅すること 終わりのない この道
  愛する人 そばに連れて 夢 探しながら
  雨に降られて ぬかるんだ道でも
  いつかは また 晴れる日が来るから
  
  ああ 川の流れのように おだやかに
  この身を まかせていたい
  ああ 川の流れのように 移りゆく
  季節 雪どけを待ちながら

  ああ 川の流れのように おだやかに
  この身を まかせていたい
  ああ 川の流れのように いつまでも
  青いせせらぎを 聞きながら

 
 写真は、11年ほど前、しまなみ海道に行ったときのものです。
(前列左側)
車酔いが激しく車が嫌いな祖母が、自分から
「しまなみ海道を渡ってみたい」
と言ったときのものです。
これが最初で最後の唯一の旅でした。

 大正時代に生まれ、激動の昭和、そして平成といった3つの時代を生きた祖母。
その人生は、想像を絶するものです。
 泣き言一つ言わず、もの静かな生き方は、
川の流れのように大らかで、おだやかなものだったように思います。

 その最後も家族・親族に見守られながら、
川がゆったりと流れるように、静かに終えました。

 そんな祖母を知る、法要に集まっていただいたみなさんの目から
涙が流れ落ちます。
 亡き後もこのようにおおぜいの方々から、想いを寄せていただいたことが
何よりの供養となりました。

 死ぬる(亡くなる)ということは、
再び生き始めるということなのかもしれません。

                     岬人(はなんちゅう)

                    

CLOSE YOUR EYES ~瞳を閉じれば~

2010-05-05 | ブログ
 5月4日の祖父金太郎と祖母ミチエの法事では、
2人をなつかしむために、写真をスライド上映しました。

 特に、太平洋戦争で亡くなった祖父金太郎の写真は少なく、
集めるのに苦労しました。
 
 初めて目にするセピア色の写真が、
70年近くの時をこえて映し出されます。
祖父金太郎を懐かしむ人、
目にしたことはないけれども、想いをはせる人。
 集まっていただいたみなさんの目から涙がこぼれ落ちます。
 亡き祖父が、甦(よみがえ)った瞬間です。
生き続けるということは、こういったことなのだと感じました。

 写真のスライドショーにあわせて、曲を流しました。
その曲は、長渕剛の「CLOSE YOUR EYES ~瞳を閉じて~」
歌詞が、祖父金太郎と残された祖母ミチエ・武久・千鶴子・鶴松の想いが重なる気がしたからです。

『それでも この国を たまらなく 愛しているから
もう一度 生まれ変わったら 私の名を 呼んでください
 寒さに 震える夜も 流れる涙 つむぐ夜も
もう一度 生まれ変わったら あなたを決して 離しはしない

 私の胸の中へ帰っておいで 気高い あなたの勇気を抱きしめたい
ひそやかな海に咲いた白い花たちが 
今 私のからだに折り重なる

 close your eyes 瞳を閉じれば あなたが私に 微笑みかけるよ
 close your eyes 瞳を閉じれば 希望へかけのぼる あなたが永遠に生きている

 それでも この道を 耐え忍び 歩いて来たから
もう一度 生まれ変わったら あなたの名を 呼んであげたい

 夕暮れに しなだれて 必ず 明日が来るんだと
もう一度 生まれ変わったら あきらめないで 待ち続けたい

 私の胸の中へ帰っておいで 気高い あなたの勇気を抱きしめたい
ひそやかな海に咲いた白い花たちが
今 私のからだに折り重なる

 close your eyes 瞳を閉じれば あなたが私に 微笑みかけるよ
 close your eyes 瞳を閉じれば 希望へかけのぼる あなたが永遠に生きている』

 
 瞳を閉じると、祖父金太郎も祖母ミチエも
永遠に生きているような気がします。

                     岬人(はなんちゅう)

手紙

2010-05-05 | ブログ
 太平洋戦争で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。

 写真は、妻ミチエに向けて書かれたものです。
裏の差し出しは、
 北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
となっています。

 手紙は見つかっていませんが、
写真といっしょに入っていたのでしょう。
 祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。

 「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」

「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきます。

 祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
宮城県塩竃から山形県酒田をめざしていました。
 そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。

 定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。

 浅野金太郎27歳。

 終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。

                   岬人(はなんちゅう)

 

佐世保での再会と最後の別れ

2010-05-05 | ブログ
 5月4日の祖父金太郎の66回忌、祖母ミチエの7回忌には、
30名をこす多くの地縁・血縁のある方々に集まっていただきました。

 そんな中に、戦死した祖父金太郎のことをよく知っている、
浅野愛明(よしとし)さんがいました。
 愛明さんは現在86歳で、金太郎とは7歳年下の甥にあたります。
2人はまるで兄弟のように育ち、お互いにたいへん慕っていたようです。
 祖父金太郎に関する話を、初めて聞かせていただきました。

 祖父金太郎は、家族と最後の別れをし、三崎から別府行きの繁久丸に乗りこみました。
別府に着いてからの行き先は、長崎県佐世保にある海軍駐屯地。

 18歳になった浅野愛明さんは、佐世保海軍工廠に勤労青年として働いていたそうです。
事前に金太郎から手紙をもらい、佐世保に入隊する期日を知らされていました。
愛明さんは、一目でも会いたいと思い、
到着時刻や入隊する門などを聞き回り、細かく情報収集していました。

 そして愛明さんが待ち受ける中、200名をこす軍人さんたちが行進しながらやって来ました。
門は2カ所あり、もしまちがっていれば会うことはできません。
 愛明さんは、大勢の中から必死で金太郎をさがしたそうです。
そしてついにその中に、金太郎の姿を見つけたのです。
兄弟のように育った2人が、ふるさと平礒から遠く離れた佐世保の地で再会を果たしたのです。
許された時間は、たったの5分。
いったいどんなことを話したのでしょう。
 
 この再会が、最後の別れとなりました。

 愛明さんは、その時のことを心の底から懐かしむように話してくれました。
また一つ、祖父金太郎の姿が感じられました。

 写真は、旅順の駐屯地で撮ったもののようです。
写真の裏に、とてもきれいな字で書かれていました。

                  岬人(はなんちゅう)

親子の最後の別れ

2010-05-05 | ブログ
 5月4日の祖父母の合同法要に先立ち、父に祖父のことを聞いてみました。

 父武久は、金太郎とミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 
 当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうです。
ところが、今回の聞き取りで新たなことがわかりました。
出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。

 出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
 親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
 幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。
沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。

 ほとんどは、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらったそうです。
 父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
 
 これが、親子の最後の別れとなりました。

 この当時の日本には、同じような別れがたくさんあったことでしょう。
それから67年が過ぎました。
 私たちは、こんな日本があったことを、
決して忘れてはいけません。

 写真は、唯一残っていた家族写真です。
祖父金太郎が、父武久を抱いており、
祖母ミチエが、千鶴子おばちゃんを抱いています。
                     
                       岬人(はなんちゅう)
           


祖父母を偲ぶ

2010-05-05 | ブログ
 昨日、5月4日は、亡き祖父母の法事を行いました。
 祖父金太郎は、太平洋戦争終結3ヶ月前の昭和20年5月13日に亡くなり、
66回忌。
 祖母ミチエは、平成16年9月13日に亡くなり、7回忌。
2人は、お互いに大正7(1918)年生まれで、何と命日が同じです。
法事の年も重なり、それならばいっしょにとりおこなうということになりました。
もの静かで、考え深い人柄だったそうです。

 父が、幼き日をふり返り、次のように語ってくれました。

 『今をさる70年近く昔、太平洋戦争において父(金太郎)は出征をいたします。
1度の里帰りをすることもなく帰らぬ人となりました。
父、出征中は銃後の妻として母(ミチエ)は、過酷な道を歩むことになりました。
我ら2人(武久と千鶴子)の子どもと年老いたぼくとつの舅(鶴松)につかえ、
心身ともにその過労は極にたっしました。
 
 またある日、脱穀したばかりの麦を天日干ししていました。
そこへ置き薬のおばさんがやって来ました。
母の顔を見るなり、両方の手で顔をおおいながら、
「奥さん、あんたはそんなにしてまで仕事をせないかんのかえ」
と言ってその場に泣き崩れました。
その時の母の両目は真っ黄色な目やにでふさがれていました。
ようやく真ん中にお箸の先でつついたほどの小さな穴があいていて、
そこから見えるほどでした。
 母が毎日使っていた2枚貝に入っていた真っ赤な目薬を、
いまだにはっきりと覚えております。
 
 終生忘れられない淋しい想い出があります。
 当時5歳の私は、父のお骨壺を、空襲にあい焼け野が原となっていた松山の県庁へお受けに行きました。
平礒では、他にも2名の戦死者があり、3名の合同葬儀が行われました。
 葬儀の日程も決まり、その日が近づくと私たち2人の子どもと母は、
暗い明かりの下、来る夜も来る夜も葬儀の練習をしました。
土間の中央に立ち、中の間のまいら戸に向かい練習をいたしました。
「深々と頭を下げて、3歩前に進んで手を合わせなさいよ」
と言う母の教えを何度も繰り返しました。
 おそらく母は、2人の子どもの寝息を聞きながら、
止めどもなく流れる涙を止めることはできなかっただろうと思います。
 
 当時20代半ばの女性が一度の浮き名も流すことなく、
想像を絶するような道を乗り越えてこきました。
それができた理由として考えられますのは、
ある日、戦地の父から母へ手紙が送られてきたようです。
その手紙には、一首の和歌が書かれていました。
 母は、それから60年近くも経ち、入院していたベッドで、
孫の美智子にその歌をすらすらと読んで聞かせたそうです。
  
 「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」

 本日、このように大勢のみなさまにお集まりいただいて、盛大な法要を行うことができましたことを心よりお礼申し上げます。
 亡き父母もたいへん喜んでいることと思います。
 ありがとうございました。』

 魂が生き続けるということは、きっとこういったことをいうのでしょう。

                   岬人(はなんちゅう)