kimitsuku独り言

日々の暮らしから感じたあれこれを
ひとりブツブツ独り言

敦盛と忠度

2011年02月07日 | 日記
     
 1184年に行なわれた源平合戦・一の谷の戦い屏風絵。馬で軍船へ向かう
武者を呼び止める熊谷直実。『逃げるとは卑怯なり』の言葉に戻った平家の
若い武者は平敦盛、まだ16歳の少年であった。直実は自分の子供と同じ頃の
若者を惜しみ、見逃そうとするが敦盛は潔く首を差し出した…とのこと。
 能や謡曲、歌舞伎でも演じられる敦盛の最期は、平家滅亡の歴史の中でも
一段と「ものの哀れ」を感じさせるエピソードだろう。
後の風雲児・織田信長が好んだと伝えられる歌
 「人間五十年、下天のうちを くらぶれば 夢幻の 如くなり。
   一度生を享け 滅せぬものの あるべきか」は、幸若舞『敦盛』の一節。
歌舞伎『熊谷陣屋』は、直実が敦盛の身代わりに我が子を犠牲にする筋書き、
世の無常を嘆く直実の悲哀が胸に迫る、播磨屋・中村吉右衛門の当たり役。
      
 同じく一の谷で敗れた平家の武将・平忠度は、藤原俊成に師事した
歌人でもあった。都を落ちてゆく際に俊成を訪ね、一首を残した。
  「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
後に俊成はこの和歌を、『千載和歌集』に詠み人知らずとして載せた。
                   
 なお無賃乗車を「さつまのかみ」と呼ぶのは、忠度(ただのり)の官命が
薩摩守(さつまのかみ)だったことに由来するとか。
 今から827年前の2月7日…旧暦では3月20日、栄華を誇った平家の
武者が二人、儚くも命を落とした。『命を惜しむな、名こそ惜しめ』。
歴女kimitsuku思うに、敦盛も忠度も実にアッパレな日本男子であった。
近頃の争いを好まぬ優しい日本男子も、悪くはないけれど…ねぇ
コメント
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