内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

幸いにも出会うことができたなつかしき作品たちへの感謝の言葉

2024-06-17 03:13:37 | 雑感

 私にもかつてあった青年期、と言いたくなるほど今では非現実的な過去の彼方にある昔、吉田秀和の文章をよく読んでいました。その理由は、一方では、全幅の信頼を置ける音楽評論家としての彼の楽曲・作曲家・演奏家等についての評言を知りたかったからであり、他方では、どんな主題を扱っていても明度が高くてしなやかで凛としたその散文を嘆賞するためでした。
 もう茫々たる遠い思い出なので確かなことは言えませんが、名曲を解説する吉田の文章の中で、この曲をまだ知らず、発見する喜びをこれから味わえる人たちを羨むという趣旨の文言に何度か出会ったことがあります。
 そうか、知らないからこそ発見の喜びというものがあるのか、と自分の無知をいささか慰められ、嬉しかった覚えがあります。知る人ぞ知る名曲であれ、それを知らない本人にとっては、まったく新鮮な曲として聴くことができるわけであり、これは無知である者の「特権」とも言えなくもありませんよね。
 以来、知らないことを恥ずかしがらず、初めて聴いたときに、「わあぁ、これって、なんていい曲なんだろう」と、素直に喜べるようになりました。それは今もそうです。
 ことは文学作品でも同様であると一応は言えるでしょうか。ただ、音楽とはちょっと違うかなとも思います。
 高校一年生まではろくすっぽ本を読まなかった私は、いわゆる児童文学の傑作・名作は何も読んでいないに等しく、それを「大人」になってから読んでも、もう素直に「発見の喜び」とは言えません。それなりに楽しめるかも知れませんが、子どものときに読んでいたらば得られたであろう感動はもはやどうにも不可能であり、それは取り返しのつかないことです。それを今さら後悔しても始まりません。
 若い頃に読んでおくべきであった名作を今さら焦って読み漁ろうとはもう思えません。幼年期も思春期も青年期ももう帰っては来ないのですから。新しい作品との出会いを是が非でも求めるよりも、この半世紀ほどの間に馴染んできた、お世話になった、あるいは深い愛着を覚える少なからぬ作品たちを丁寧に読み返していきたい、今はそう思います。そして、読みながらそれらの作品たちそれぞれに、「ありがとうございました。あなたに出会えたことは私にとって幸いでした」と感謝の挨拶をしていきたい。昨日の記事で取り上げた『蜻蛉日記』もそのような一冊です。
 その挨拶は、同時に、出会うことのできなかった数々の名作たちへの間接的な別れの挨拶でもあります。「あなたたちの評判はかねてより聞いていたのですが、いつか読んでみたいとは思っていたのですが、ついに手にとって読む機会が私にはありませんでした。残念です。ごきげんよう、さようなら。」