内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

まったく予期せぬ仕方で初めて見る小動物が新しい生の扉を開く ― ビンスワンガー『うつ病と躁病』より

2025-03-30 18:53:49 | 読游摘録

 27日の記事から言及してきているコリーヌ・ペリュションの本の中に、ビンスワンガーの『うつ病と躁病』に記述されたあるうつ病患者の事例が一つ紹介されている。これが興味深い。
 ペリュションの本ではかなり簡略化された形で紹介されているので、ビンスワンガーの同書の仏訳からもう少し詳しく紹介してみよう。ただ、記述の順序も表現も私なり簡略化していることをあらかじめお断りしておく。
 その患者は48歳の男性で、かなり重篤な状態でビンスワンガーの病院にすでに二度入院していた。その後、症状がさらに悪化し、別の病院に移った。ところが、その病院では、統合失調症の患者に対する処方をこのうつ病患者に適用した。その患者に行動の自由を与えたのである。
 ある日、その患者は、その自由を「乱用」して、自殺するつもりで病院を抜け出す。森のなかで首を吊るためにある木の枝に自殺用に持参したサスペンダーを引っ掛ける。そのとき、近くの草叢で匂いを嗅いでいる小さな動物に気づく。最小の食肉動物イイズナだった。
 その患者は自分に向かって言う。「おまえはこれまで一度もイイズナを見たことがなかったじゃないか。ちょっと見てみたらどうか。」
 10分ほどその珍しい小動物を注意深く観察した後、彼は気づく。自殺する意思が自分からすっかり消え去っていることに。それで、木にかけてあったサスペンダーを外し、身繕いをして病院へと帰った。
 自殺の意思が「別の話」に取って代わられることで消失したのである。この出来事は生が死に勝利を収めたことを意味していると言いたくなるが、この出来事のなかで、生は、初めて見る小動物として「受肉」していた。この受肉せる生が患者のすべての関心を惹きつけたことが患者の「再生」をもたらした。
 言い換えれば、まったく予期せぬ小さな出来事が、自殺によって不可逆的に今にも閉じられようとしていた患者の時間に新たな生の時間の扉を開いた。
 このように、本人にとっては絶望の極みに、まったく本人の意図や意思に拠ることなく到来するものを、そしてそれに対して予期も期待もせずに(というよりもその不可能性のなかで)開かれてあることを、ペリュションは espérance と呼んでいる。