内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語で哲学する(五)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-03-03 00:00:00 | 哲学

 単・複を区別しないということは、その区別を排除するということを直ちに意味するわけではない。この単複の不決定性は、形態論的には、冠詞あるいは語尾要素という顕在的な量化子の名詞に対する任意性という性質として現れている。この量化子の任意性は、日本語による認識世界には、「単数でも複数でもなく、それでいて、単数的でも複数的でもあり得る」という対象認識のレベルが形態として顕在的に表示されているということを意味している。つまり、いきなり個別的対象として可算名詞の範疇にいやおうなく各個体を帰属させるのではなく、悟性による抽象化の手続きを経ずに、いわば対象を直接的かつ感性的にその質的一般性において立ち現れさせることができる表現レベルが日本語には基本的に備わっているということである。
 このとき、そのように対象をその質的一般性において感受している受容者は、自己とは截然と区別された他の数えられる諸個体からなる客体的世界に対する認識主体として機能しているのではない。いわば質的世界それ自身の自己表現点として、その質的世界に内属しているのである。それゆえにこそ、いわゆる情景描写がそのまま情感の表現であり得るのである。
 そこには「私」さえ不在なのであり、それゆえにこそ、その描写の読み手もまた、その質的世界の中に、主体としてではなく、いわば「その光景の片隅に佇むもの」として、文字通り浸透することができるのだ。なぜなら、質的世界へのこのような「非主体的な」浸透は、可算的個別的対象として記述されうる対象群からなる世界に、それらとは区別された個別的な意志的行動主体である身体として自分の場所を確保するという、主客二元論を既得権として前提とした、主体から客体への「暴力的な征服」とはまったく異なった、まさに私の言う「心身景一如」の直接経験にほかならないからである。
 このような直接的に経験された情感的世界を「質的経験の世界」と呼び、可算的なものの集合として対象的に認識された世界を「量化的世界」と呼ぶことにしよう。そのとき、私たちは次のように日本語の特徴を言い表すことができる。
 冠詞・語尾要素等の量化子を不可欠の文法要素としない日本語は、「量化的世界」の記述には、任意的要素の意識的導入を必要とするが、まさにそれゆえにこそ、「質的経験の世界」の表現には、「自ずと」際立った適性を有する言語である。
 今や私たちは、なぜ井筒が言うところの「情緒纏綿たる詩的感性の世界」が日本語において生起しやすいのかという問いに答えることができる。
 それは、日本語が、現象世界を、質的経験の世界として、その質において直感(直観ではない)的に表現することができる言語だからである。情景を描写する日本語の表現、とりわけその詩的表現に私たち日本人が強く感応するのは、己がそこに棲まう質的世界との情感的一体性が、そこに見事に表現されているからにほかならない。
 このように、世界の可算的対象性を「括弧に入れて」、現象をその質におて直感的に立ち現れさせることができるという著しい特性を有する日本語は、それ自体が「現象学的」言語だと言うことができるだろう。日本が「言霊の幸はふ国」であることと「現象学の幸はふ国」であることとは、だから、まったく無関係というわけでもないのである。少なくとも、次のようには言ってもいいのかもしれない。量化子の任意性というその基礎的性格のゆえに、単数・複数意識からも、冠詞に媒介された対象認識過程からも、自ずと解放されている日本語によって知覚世界が分節化されている日本が「現象学の幸はふ国」であるのは、偶然ではない、と。