内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(六)― 人間を動物から分かつ「深淵」

2015-03-23 14:19:51 | 読游摘録

 Penser ce qui advient 第五章は、« L’homme, l’animal » というそのタイトルからも推測できるように、人間と動物との区別と関係、さらにはその他のすべての生き物との区別と関係がテーマである。これまでの章と同様、ハイデガーの議論を絶えず参照しながら、ダスチュール先生の考えが表明されている。ハイデガーにおける、「人間と動物との間には、両者を分け隔てる「深淵」がある」というテーゼにまつわる誤解を解きながら、議論は展開する。
 以下、ダスチュールの主張を私の方でまとめて提示するので、「師曰く」といった類の表現は、これを一切省略する。
 上記のテーゼは、人間の動物に対する、さらに他のすべての生物に対する絶対的優位性を主張しているのではない。それは、まったく逆に、人間を理性的動物と規定したアリストテレス哲学以降の人間観、そこから派生する人間中心主義、特に他の生物に対する人間の支配的立場の正当化を、根本的に問い直そうという意図から提示されている。
 人間と動物との連続性を認めた上で人間の固有性を理性に求めるという考え方は、さまざまな形をとって今日まで生き延びているが、一方、現代の生命科学の知見によれば、ますます人間と動物との差異は相対化されており、人間に固有と考えられてきた心理的現象も、脳内の情報伝達のシステムに還元されようとしている。
 しかし、いかなる科学者も、観察対象が生きる世界に人間として内属しているかぎり、まったくその世界に対して超越的な立場に立つことはできない。むしろ、世界へのこの本来的な内属性が、己自身が生きる世界内において、その「明るみ」の中に到来する存在をそれとして把握することを可能にしている。
 この存在は、しかし、主観に対する客観的対象として認識されるのではなく、つねに「己の外へと立たされている」被投企的な現存在である人間に出来事として到来する。世界の「明るみ」への存在の到来の場所が人間なのであって、人間がその「明るみ」そのものなのではなく、その起源なのでもない。人間は、その「明るみ」の主人なのではなく、そこへと到来する出来事の、いわば「番人」なのである。
 このように、世界へと到来するものに応じて開かれた可変的な関係性そのものが人間存在なのである。この関係性が人間に固有なものであり、それを根拠に他の生き物と人間との間には両者を分かつ「深淵」があると主張することは、一方で、人間の形而上学的優位性、その近代的な形態である進化論的な優位性を主張する一切の人間中心主義と手を切ることを意味しているのであり、他方では、人間を他の生物と等しく対象化しようとする科学的普遍主義、生物間に見られる「種差」からの類推によって「人種」間の優劣を根拠づけようとする疑似科学主義に対する根本的な批判を含意してもいるのである。