内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

国際シンポジウム「『間(ま)と間(あいだ)』― 日本の文化・思想の可能性」二日目

2015-03-13 08:26:21 | 雑感

 昨日12日のシンポジウム二日目は、朝十時から午後六時まで、昼食を挟んで、六つの発表と一つの講演。
 午前中の最初の発表は、京都大学の藤田正勝先生の「間(ま)と間(あいだ)と間(あわい)」についての発表。日本の文学・芸術・思想・宗教に見られる様々な「間」の具体例を上げながら、それらの創造的時空間としての根源性を浮かび上がらせるという興味深い内容。それぞれに深めるべき論点を含んでいる例示だったが、三十分という発表時間に制約されて、省略された論点も多く、議論を深めることができなかったのが惜しまれる。二番目が私の発表。これも三十分の時間におさめるためにかなり省略したし、その場で口頭の要約に替えた部分もあったが、議論の大筋は示すことができた。三番目が、サンパウロ連邦大学の先生の発表。芸術における「間」に対する記号論的アプローチというテーマ。パースの記号学と連続性の哲学に依拠したそのアプローチは、私にはとても斬新で、大変興味深く、面白く聴くことができた。三つの発表の後、発表者と会場との質疑応答。それぞれの発表にいくつか質問が出て、それに対する回答からまた次の議論につながるような発展も生まれた。私の心身景一如論への反応もいろいろとあって、発表者としてはまずまず手応えがあった。
 昼食後は、オーギュスタン・ベルク先生の日本語での講演。タイトルは、「〈ま〉と〈あいだ〉は論理や自然科学にもあり得るか ― 情理のパラダイムへ向けて ―」。二値論理から三値論理へという拡張或は移行ではなく、二値の「あいだ」あるいは「ま」という、両値のいずれにも還元不可能な、それらの分節化を視野に収めるパースペクティブを開く鍵としての「ま」あるいは「あいだ」に新しい知のパラダイムの可能性を見るという、先生の風土学を理論的背景とした内容。講演後の参加者との質疑応答にも十分な時間があり、一つ一つの質問に、日本語あるいはフランス語で丁寧に先生は答えられていった。
 講演後は、日本文学に関する三つの発表。発表者は、詩人で東洋大学教授の福田拓也先生、立教大学の鈴木彰先生、パリ極東フランス学院のフランソワ・ラショー先生。それぞれ「万葉集の表記における「間」の反復」「『平家物語』本文と挿絵・註釈の間-十七世紀における物語解釈について」「間と間の変奏曲 ― 泉鏡花と能楽に関する一考察」というタイトル。
 私には、すべての発表がとても面白く、私一人でほとんど三十分の質疑応答時間を独占するような結果になってしまい、後でCEEJAの副所長からは、「質問が長い」と注意されてしまった(これが初めてではないが)。しかし、これは私の質問に対する発表者からの回答の方も長かったということでもあり、私ばかりのせいとは言えないと思うのだが。それに、他に質問したい人がいたのに、私のせいで質問する時間がなくなったというわけでもなかった(我先にと質問したのではなく、会場を見回して、他に挙手している人がいないのを確かめてから、挙手した。あるいは死角になっていて見落としたかもしれないが)。むしろ、他の参加者の中は、私の質問によって気づかされたこともあり、それに対する発表者の回答によって、さらに問題の理解が深まったといってくださった方もあったから、シンポジウムを盛り上げるのにそれなり貢献したとさえ言いたいのだが、これは少し傲慢だろうか。
 発表終了後は、ワイン街道沿いの村で、最も美しい村としてよく知られたリックヴィールの名店の一つ Le Sarment d’Or でほぼ全員の参加者たちで夕食会。木曜日ということもあり、貸切状態、各テーブル哄笑が絶えないしい会食であった。