内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(七)― 存在関係総体の療法としての現存在分析

2015-03-24 21:12:51 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第六章のタイトルは、「精神医学、精神分析、現存在分析」となっており、現存在分析の根本規定とその精神療法としての現代的可能性と問題が主な内容となっている。
 ダスチュール先生は、一九九三年に設立された「現存在分析フランス学会」の四人の設立者の一人であり、現在はその名誉会長。対談相手のカベスタン氏は、ここ十年あまり、同学会の最高責任者の一人である。二人は、Daseinsanalyse(現存在分析)という書名の共著(220頁)を二〇一一年に Vrin 書店から刊行しており、その中で、順に、現存在分析の基礎概念とその要諦、前史・先駆者、創始者ビンスワンガーと「再創始者」メダルト・ボスの貢献、その継承者たち(そのなかには木村敏も入っており、七頁に渡って紹介されている)による展開、フロイトの精神分析学との対比を、実に丁寧に行き届いた仕方で説明している。
 対談は、この本の内容を前提としているが、それだけを読んでも、精神療法として現存在分析がどのような哲学を基礎に据えているのかはよくわかる。言うまでもなく、その核心はハイデガーの哲学であるが、フッサールにまで遡る基礎概念も導入されており、現存在分析をハイデガー哲学の精神医学における臨床的適用と単純に見なすことはできない。現存在分析は、ハイデガー哲学の臨床的応用、転用、流用、借用、そのいずれでもない。
 今日の記事は、いつものような内容紹介ではなく、同章を読んで私の中に引き起こされた反応的思考の記録である。
 ハイデガーは、晩年の十数年間、メダルト・ボスと親交を結び、一九五九年から一九六九年にかけて、スイスのチューリッヒ近郊にあるツォリコーンのボスの自宅で、定期的なゼミナールを開いていた。そのゼミナールの記録は、邦訳『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房)も出版されているから、ご存じの方も多いであろう。そのゼミナールに参加していたのは、五十人ほどの精神科医や臨床心理学者たちだった。
 今も世界各地でさまざまな形で継続されている現存在分析の実践において、ハイデガー哲学の実存的「有効性」が、臨床の現場で試されている。この意味で、療法としての現存在分析は、一つの哲学的実践である。しかも、それは、治療者の患者に対する施療として一方的実践されうるものではなく、患者と治療者という制度的な関係を超えた、両者による一つの協働的な哲学的実践なのである。そうでなければ、現存在分析は、そもそも療法として成り立たない。
 現存在とは、個的に独立した人間存在のことではなく、人間の自己関係に内閉されることはありえず、「そこに在る」ことによって、己自身ではない他の存在者の存在へと開かれている。したがって、現存在分析は、個体の実存の分析ではなく、療法としての現存在分析は、個体としての患者の治療ではありえない。そこで問われるのは、なによりももまず、現存在において開かれてあるべき存在関係に発生した問題なのである。
 だから、療法としての現存在分析は、一個の人間を心身まるごと対象にするだけでなく、その人間の他の諸存在との関係の総体を対象とする。そして、その関係の総体の中には、当の治療者の患者に対する関係も必然的に含まれている。治療者のそこでの仕事は、患者の「病」を治すことではなく、傷ついた存在関係の自発的再生を関係性そのもの中で手助けすることである。
 現存在分析は、あらゆる意味で、人間を一つの独立したメカニズムとして扱うことを拒否する。ビンスワンガーもボスも、分析家・治療者としてのフロイトには賛辞を惜しまなかったが、ひとたびフロイトが精神分析を「学」として基礎づけようとし、心的メカニズムを想定し、それによってあらゆる心的障害を説明しようとしはじめたところで、精神分析学と袂を分ったのも、それゆえのことである。
 今日、現存在分析はもう過去のものと考えている専門家も少なくないようである。精神分析が幸わう国フランスでも、現存在分析の支持者は少数派である。問題のタイプによっては、他により有効な治療法もあるであろう。しかし、現存在が、己以外の存在者の存在につねに開かれていて、それゆえ、傷つく可能性をつねにもった存在であり、現存在分析が、傷ついた存在関係の総体の治癒を目指すものであるとすれば、今日こそ、単に臨床の現場にある人たちによってばかりでなく、私たちの日々の暮らしの中で、現存在分析は学び直されなくてはならないのではなかと私は思う。