内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(三)― 哲学は、一つの身体のレッスンである

2015-03-06 00:00:00 | 哲学

 昨日のブログの記事の中で引用したように、メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』(1945)の序文で、「ほんとうの哲学とは、世界を見ることを学び直すことだ」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde » )と言っています。
 でも、「世界を見ることを学び直す」といっても、いったいどうしたらいいのでしょうか。ただぼんやりと街行く人たちをカフェのテラスに腰掛けて眺めていても、見えて来るものが自ずと変わるわけではありませんし、あれこれの本を読だり学校で勉強したりして知識を増やしても、芸術鑑賞して感性の涵養に努めても、美しいものにより敏感になったり、ある事柄についてちょっと気の利いた観察や穿った見方くらいはできるようになるかもしれませんが、世界の見え方がすっかり変わるというところまでは、なかなかいかないでしょう。
 何かを学ぼうとしているのですから、何かもっと積極的な姿勢や明確な動機が必要なような気がします。しかし、こうすれば誰でも世界の見方が変わるというようなお手軽な手段というのもなさそうです。その手のことを謳っている本やサイトや教室など、まず間違いなくまやかしでしょうから、むしろ警戒したほうがよさそうです。
 それに、もっと気をつけなくてはいけないと思うことは、そもそも何かを学ぼうという積極性とか目的性というのは、それがまた一つの「罠」になってしまいかねないということです。なぜなら、そのような積極性や目的性をもって何かを実行すると、それは、それまで自分が持っていたある見方に、何か別の見方を置き換えるということに終わってしまいかねないからです。ところが、ここで試みようとしているのは、そのような「見方を変える」ということではなく、「見ること」そのこと学び直すことなのです。
 「見ること」そのことを学び直すということは、知識の習得や知的な訓練よりも、普段の歩き方、あるいは呼吸の仕方を学び直すことにもっと近いことだと思います。日本人は、歩く姿勢が悪いと欧米人から揶揄されることがよくありますが、最近では「歩き方教室」というのが日本のあちこちにあるようで、自分の歩き方を先生について矯正する人も増えてきたようです。呼吸については、古来さまざまな呼吸法が伝えられてきており、ヨガや座禅など、その代表的なものでしょう。それら以外も含めて、何らかの呼吸法を実践されている方は少なくないでしょう。哲学的実践としての「見ることを学び直す」ことも、そのような身体的修練の一つ ― もちろんそれに尽きるものではありませんが ― であると私は考えています。実践としての哲学は、この意味で、一つの身体のレッスンだ、と言ってもいいかもしれません。
 しかし、ここで考えたいのは、そういったある特定の訓練や方法習得段階に入る以前の、もっと基礎的で初元的な、心構えといいましょうか、身構えといいましょうか、そのようないわば「見ることの始まり」に立ち返るにはどうしたらいいのだろうか、ということです。
 なぜかというと、ここでの問題は、見ることを初めて「学ぶ」ことではなくて、「学び直す」ことだからです。私たちは生後数週間もすれば、視覚器官に不自由がないかぎり、すでに自ずと見ることを学び始めてしまっています。だから、哲学的実践として見ることを学び直す前に、見ることをすでにすっかり身に付けてしまっているとさえ言うことができるでしょう。それだけに、「見ることを学び直す」ことは、歩き方を学び直すこと以上に難しく、少なくとも、呼吸の仕方を学び直すのと同じくらい難しいと言えると思います。
 明日また、姿勢と呼吸を調えて、もう一度最初から問題を考え直してみましょう。