内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(八)― 哲学の外なる思想の経験との対話

2015-03-26 11:57:56 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第七章は、« Orient / Occident » と題されていて、ダスチュール先生の「非ヨーロッパ」との出会いと対話を主題としている。
 先生は、ソルボンヌの学部三年生であった一九六三-六四年度にフライブルク大学で一年間ドイツ国家給費留学生として学業に集中するチャンスに恵まれた。ドイツを留学先に選んだのは、一八世紀末から二十世紀初頭にかけてのドイツの哲学と文学がヨーロッパ文化の精髄をもっともよく代表していると考え、その研究に集中しようという決意からであった。
 そのドイツ留学時代に、将来夫となる留学生と出会う。その留学生は、インドからの留学生で、パ―ルシー(九世紀にペルシアでイスラム教徒の迫害を避けてインドに逃れてきたゾロアスター教徒)の末裔であった。当時のフライブルク大学には、同時代のソルボンヌに比べて、はるかに多くの「第三世界」(アフリカ、アジア、中東などの非ヨーロッパ圏の諸国)からの留学生が学びに来ていた。ダスチュール先生自身、ドイツでは外国人留学生だったわけで、それらの非ヨーロッパ諸国の留学生たちと留学の当初から顔を合わせる機会が頻繁にあったという。
 この出会いが、それまで古代ギリシア語とドイツ語の哲学と文学とに限定されていた先生の学問的・思想的関心を一気にヨーロッパ圏外へと拡大させる。留学中に、将来のご主人の手引で、ヒンディー語とサンスクリット語の学習とゾロアスター教の研究を始める。留学後、パリに戻ってからも、当時の東洋語学校(現在のイナルコの前身で、「ラング・ゾー」の通称で知られていた)に通ってヒンディー語の学習を継続する。それには、ご主人と一緒にインドに移住する計画を当時立てていたということもあった。しかし、この計画は、先生がソルボンヌの助手に任用されるという予想外の展開のために放棄されることになる。
 しかし、先生は、結婚後、最初は夫の家族に会うため、そして後には講義・講演のためにも、インドにしばしば滞在する機会を持つようになり、そこで非ヨーロッパ世界での社会生活をまさに身をもって経験することになる。この経験が先生の世界への眼差しを大きく転回させることになる。
 ヨーロッパでは、インドについて、いまだ否定的なイメージがつきまとう。今日もなお不公平きわまるカースト制の残滓が見られる非民主的な国家だという偏見が根強い。特に、平等主義を掲げ、政教分離が確立した共和国として、自国を鼻にかける輩が少なくないフランスでは、ことほかそれが目につく。
 ところが、民主主義賛美の美辞麗句を並べた偽善的な言説がいまだに横行するフランスこそ、「一種のカースト社会」だと先生は批判する。近代社会は、前近代社会の階級制を終焉させたどころか、「権利上平等な社会秩序」という表層の下に、階級制を別の形で再生産しているに過ぎない。一介の工場労働者や被雇用者たちが、社会の富の大半を独占している三百人ほどの富豪たちと同じ人類に属していると、いったいどうしたら信じることができるだろうか。「エリート主義」の根強いフランス国家・社会に対する先生の眼差しは、ご自身が貧しい労働者階級の出身であるだけに、とても厳しい。
 このような手厳しいフランス批判の後に、先生は、現代インド社会における民主化の進展と伝統的に異なった多種の信仰に対する寛容さとを、具体例を挙げて強調している。その上で、これらのことをすべて考慮するとき、どうして、ヨーロッパ文化全体を、これまでとまったく別の視角から考えなおさずにいられるだろうか、と問う。
 その別の視角から見れば、ヨーロッパは、ヴァレリーが言うように、「アジア大陸の小さな岬」なのであり、そのヨーロッパが「地上世界の貴重な部分」になったのも、アジアからもたらされたものにその多くを負っていることがわかる。
 しかしながら、ヨーロッパにおける「自民族中心主義」は根深く、フッサールでさえ、その例外ではなく、ハイデガーもまた、少なくとも三十年代までは、フッサールと同じような世界観を持っていた。
 とはいえ、ハイデガーに無条件的な西欧中心主義者を見るのは誤りだと先生は言う。特に、Ereignis (創文社版『ハイデッガー全集』では「性起」という、どうしたらこんな変な日本語(とも言えない)訳(とも言えない)があてられているが、ダスチュール先生は « événement »(出来事)という普通のフランス語をあてている)を巡っての言説には、西洋哲学を超え出て踏み出されるべき一歩が見られる。ハイデガーが Ereignis(「出来事」)というとき、それは、現存在である人間がすべてそこに置かれ、存在の到来へと開かれている世界という「明るみ」での事柄であり、そこにおいてこそ、西洋哲学の枠組みを超えたところでの対話が可能になる。その対話の一つの例として、ハイデガーが手塚富雄と一九五三年から一九五四年にかけて行った対話が挙げられている(この対話がハイデガーに『言葉についての対話』を書かせることになったことはご存じの方も多いであろう)。
 先生ご自身、西洋哲学の枠組みの中にしっかりと自覚的に立ち位置を取りながら、その外なる思想の経験との対話をたゆまず実践されている。今から十四年前、Daseinsanalyse のセミナーで木村敏の著作の仏訳がメイン・テキストとして読解の対象となっていた年に、そこに頻繁に引用されていた西田哲学に、とりわけ「行為的直観」という概念に関心を持たれた先生は、原語をそのまま「コーイテキチョッカーン」と面白そうに繰り返し発音しながら、私たちの拙い説明に辛抱強く耳を傾け、それの意味するところを理解しようと努められていたことを懐かしく思い出す。