内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(二)― 自分の「眼」で、世界を見ることを学び直す

2015-03-05 00:22:00 | 哲学

 西洋哲学史を、特に現代哲学史を大学の講義かなんかで受けたことがあるか、その手の参考書をお読みになったことがある方なら、『知覚の現象学』という書名に聞き覚えがあることだろうと思います。著者は、フランス人哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)。私は、日本での学部の卒業論文も修士論文も、フランスでの博士課程の最初の一年に書かなければならなかったDEAという論文(今では制度が変わって廃止された)も、博士論文の一章も、このメルロ=ポンティを研究対象としていました。もうかれこれ四半世紀を超える長い付き合いです(ご本人は存じ上げませんが)。
 博論後は、ごしばらく無沙汰していましたが、昨年このブログで、三月初めから七月末まで、延々と四ヶ月間、その仏語の博士論文の日本語版を記事として掲載していたとき、四月十五日から五月二十六日までの四十二回に渡って、西田とメルロ=ポンティとを対象としていた第四章を掲載しまして、そのときは、久しぶりに「旧師」に再会したかのごとき懐かしさを覚えたものです。
 『知覚の現象学』は、そのメルロ=ポンティの主著であり、この書名を捩ったのが昨日からのこのブログの記事のタイトル「近くの現象学」というわけです。フランスが誇るこの現象学者に対してなんか失礼なような気もしますが、悪意のない言葉遊びですし、記事はそれなりに真剣に書いていくつもりなので、ご本人様並びに関係者各位(って、誰?)にあられては、寛容な心でもってお許しいただきたいと願っております。
 一九四五年に刊行された『知覚の現象学』の序文は、戦後フランスの新しい現象学の登場を高揚した調子で宣言している、いわばフランス現象学のマニフェストのような記念碑的文章で、実際大変有名でもあり、今でもその一部が引用されているのをあれこれの書物の中で見かけます。
その中でも特によく引用されるのが、「ほんとうの哲学とは、世界を見ることを学び直すことだ」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde » )という一文です。そして、メルロ=ポンティの考えにしたがえば、そのための努力は、いわゆる哲学者たちの専売特許ではなく、作家や画家たちも彼らなりの仕方でそれを試みているのであり、それらのあいだに、方法にはそれぞれ違いがあっても、努力として優劣の差はありません。
 私がこのブログの記事で試みてみたいことも、現象学のわかりやすい解説や刺激的な解釈や独創的な応用ではなく(その類の本は、超優秀で才能豊かな現象学者たちによってもう数えきれないほど書かれていることでしょう)、たとえ拙い仕方であったとしても、そして自分の非力を自覚しつつも、自分の「眼」で、「世界を見ることを学び直す」ことです。
 ですから、「現象学」とは銘打っているけれども、いわゆる哲学の中の専門領域としての現象学を指しているのではなく、私の暮らしの中の哲学的実践を名づけて「近くの現象学」と呼ぼうとしているのだとご理解いただければ幸いです。
 それでは、ごきげんよう、明日またお目にかかりましょう。