内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

一傍観者の杞憂であることを願いつつ

2015-09-26 14:03:43 | 雑感

 一昨日の記事で提示した塩川徹也訳パスカル『パンセ』の訳文に対する私の疑義は、どうやら私個人の思い過ごしどころではないようである。というのも、たまたまその拙記事を読まれた東京で仏語を教えられている先生から昨日メールをいただき、同訳の問題について先月と今月にお書きになった論考三つをご教示くだされ、それを読ませていただいて、その厳密な文献学的手続きを踏まれた論証からして、どう見ても塩川訳には、少なからぬ箇所に重大な問題があると考えざるをえないからである。
 さっそくフランス文学・フランス哲学の分野で仕事をしている友人・知人にメールを送り、日本で何かこの件について身近で話題になっていないかどうか問い合わせたところである。私自身は素人に過ぎないので、これ以上このブログで塩川訳の検証に深入りするつもりはないが、事態の成り行きを注意深く見守っていきたいと思っている。
 というのも、これは単に一翻訳書の問題にとどまらないと考えるからである。単に訳文に疑義があるというだけの話ならば、そんなに大騒ぎすることでもない。まったく問題のない「完璧な」翻訳などあり得ないことは、私自身自分の経験からもよくわかっている。問題はそこにはないのだ。
 日本を遠くから眺めているだけの無責任な傍観者の杞憂であることを願うのだが、日本の学問の場で、問題となる対象について、きちんと学問的手続きを踏んだ上で、自由に討議するという姿勢とそれを実践する場所が必ずしもちゃんと確保されていないのではないかとの憂慮の念を抱かざるを得ないのである。
 しかも、そのような姿勢と場所を最も厳格に守って来られたはずの学問の「殿堂」において、その中でも学問する者の倫理的姿勢にことのほかの重きを置いてこられたはずの超一流の学者のことであるから、私のような無為無能な人間の余計なお世話も、あながち杞憂とばかり言って済ませるわけにはいかないのではないかと思うのである。
 最新の研究成果に基づいた、『パンセ』の新しい邦訳が出版されることそのことは、単に専門家たちにとってだけでなく、日本のパスカル愛読者すべてにとって慶賀すべきことである。しかし、学問的手続きとして疑念をいだかせるような箇所がその訳文から少なからず見つかるような翻訳が、こうして第一級の学者の長年の研鑽の賜物として、「一流の」出版社から出版されてしまったことを目の当たりにして、いささかショックを受けざるを得ないのである。
 ゆくりなくも、ちょうど二十年前の一九九五年十二月に、つまりその死の八ヶ月前に丸山眞男が弟子たちを前にしたスピーチで語っていたことを思い出す。その年の日本の出来事を思いつつ、「何か日本はおかしいところがある」と懸念を示し、「日本中がオウム真理教だったのではないか」と同年の重大事件を引きながら戦時中の日本のことを思い出し、「一歩日本の外に出れば全然通じない理屈が、日本の中でだけ堂々と通用している。それ以外の議論は全然耳にもしないし問題にしない」と当時を振り返り、こう続ける。「最後に理屈を言いますならば、他者感覚のなさ、ということなのです。他者がいないんです。同じ仲間とばかり話していますから。その怖さです。」
 そして、いろいろな分野にいる優秀な方たちのことを思いつつ、彼の最後の願いはこうであった。
 「どうしてこういう人たちが横にもっとつきあい、もっと話する機会をもたないのか。みなさん、どうか横につきあっていただきたい、違った職場の方々と。もったいないですよ。」