内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ルイ・ラヴェル『〈私〉とその運命』(5)― 個人と集団、現代世界の精神状況

2015-09-06 05:02:27 | 読游摘録

 ラヴェルの『〈私〉とその運命』に収めらた十六のエッセイは、Le Temps 紙上の初出がいつか同書には明記されていないのだが、同書の刊行年が1936年であるから、すべて1930年代前半に書かれたものであろう。
 ほとんどがラヴェルの同時代人の著作を対象としているが、メーヌ・ド・ビランとキルケゴールを対象としたエッセイは例外であるかのように見える。しかし、これら両者の場合も、前者に関しては、1932年に Tisserand によって再刊された Ernest Naville 版の Essai sur les fondements de la psychologie を、後者に関しては、1935年に刊行された『おそれとおののき』の P.-H.Tisseau による仏訳 Crainte et Tremblement(ジャン・ヴァールによる序論付)を、そのきっかけとしていることはほぼ間違いない。
 ラヴェルの場合、しかし、たとえそれらの版本や仏訳の出版に合せて書かれたエッセイであっても、それらの単なる紹介に終わることはない。それらの出版は、当該の本の内容を改めて立ち入って考察し、そこからさらにラヴェル独自の思索が展開される機縁となっている。これはベルクソンを取り上げたエッセイの場合も同様で、1934年の La pensée et le mouvant の出版を機縁としている。
 キルケゴールについてのエッセイでは、それが書かれた当時のヨーロッパ諸国に見られる、個人に対する集団の優位が支配的になりつつある時代状況についての憂慮を背景としながら、キルケゴールにおける〈個人〉の問題が主題となっている。
 このエッセイの冒頭を読んで、そこに叙述されている当時の時代状況と今私たちが置かれている状況とが酷似していることに暗澹とせざるを得なかった。その部分(p. 83-84)を意訳してみよう。

 個人には欠けている力能を、集団が個人に与えてくれる、そう人々は信じている。個人はもはや孤独に耐えられない。孤独は己の悲惨さしか露わにしないから。個人は、他者とともに他者によってしか、考えようとも、行動しようともしない。集団的表象がこれほどまでに猛威を振るったことはかつてなかった。
 個人を一つの人格・一個の精神としていた、真理に対するまったく内的な注意の誠実さも繊細さも、その価値を失ってしまった。なぜなら、それらは実践するのにあまりにも難しく、覆い隠されたままだからである。
 個人が好むのは、集団が持っている大規模で目に見える有効性である。集団は、個人が己自身の運命についての配慮を自ら引き受けることを免除してくれる。集団は、個人に己以上のものであるかのような幻想を与える。しかし、そのとき、個人にいったい何が残されているのか。
 諸個人の間の人格的諸関係は、尊重されるかわりに、それらをのみこんでしまう力によってすっかり破壊されている。巨大な盲目的集団同士は、互いに争うことによってしかその存在を証明できない。ところが、それらの集団は、それら集団を拒み、己自身の奥底に己の存在の法則を探求する個人を、単に集団にとっての敵として見るだけでなく、罪人とみなす点において一致している。

 現代日本の精神状況が、さらには世界全体の精神状況が、上記のような1930年代のヨーロッパのそれの、後戻りできないまでに誇張された戯画の現実化でないことを切に祈る。