内的自己対話-川の畔のささめごと

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持統天皇はなぜ自らの火葬を選択し、かつ土葬された夫天武天皇との合葬を望んだのか

2024-07-02 01:05:27 | 思想史

 今日の記事のタイトルとして掲げた問いに対する答えとして、瀧浪貞子氏が『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』(中公新書、2019年)に提示している所説を挙げておく。
 火葬に関しては、すでに昨日の記事で見たように、持統天皇が深く帰依していた道昭の例に倣ったとひとまずは言える。合葬に関しては、新しい時代の到来、より具体的には、新たな皇統の創出と確立という政治的意図があった。
 以下、瀧浪書からの摘録である(254‐256頁)。

持統は珂瑠皇子(文武天皇)の即位(697年)を実現し、その正当性を確立するために「草壁皇統」を創り出し、それを強調した。草壁皇子を皇統の原点とする思想である。その結果、天武天皇は「神」に仕立てられたのであった。以来、天皇を「現人神」とする思想が生まれ、持統もその「神」として崇められたのであるが、皇統の始祖である草壁皇子は、紛れもなくその両「神」の子であった。その意味で天武天皇と持統の合葬は、「草壁皇統」の原点であり、それは草壁皇子の嫡子である文武天皇の正統性のシンボルでもあった。文武天皇の権威を裏付けるうえで、これほど有効な措置はないであろう。持統が合葬を指示した背景に、文武天皇に対する深い配慮があったことを見逃すべきではない。

 素人の私にこの所説の当否を論う資格はまったくないが、瀧浪説によって開かれる視座から、文武を継いだその母元明天皇の命による『古事記』の完成(712年)、草壁皇子と元明の娘である元正天皇の時代の『日本書紀』の完成(720年)を歴史的文脈に位置づけるとき、記紀編纂事業の背景として皇統の確立という天武天皇の政治的意思があり、それが持統・文武・元明・元正という四代の治世をかけて完遂されたことが見えてくる。記紀神話の解釈もこの歴史的文脈を前提としてなされるべきなのだろう。