内的自己対話-川の畔のささめごと

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持統天皇の火葬についていただいたご指摘とご教示

2024-07-03 01:11:31 | 思想史

 昨日の記事についてXを通じて未知の方から以下のようなご指摘とご教示をいただいた(文言は多少簡略化)。
 持統天皇は自身の葬儀の簡素化、「倹約」を命じているだけで、「火葬にせよ」という指示は史料には残っていない。持統天皇の火葬は、天皇葬儀の簡素化(薄葬)と関わりがある。因みに、仏教に深く帰依した聖武天皇は土葬されている。持統天皇の火葬は仏教とはあまり関係がない。歴代天皇家の葬礼については、久水俊和氏の『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』に詳述されている。
 お礼のメッセージのなかで、では、誰が持統天皇の火葬を決定したのか。そしてその意図は? とお尋ねしたところ、持統天皇の葬儀を倹約せよという遺言を受けた人びとが火葬を選んだとのお返事だった。そして、大角修氏の『天皇家のお葬式』が面白かったと添えてあった。
 そこからまた新たな疑問が群がり起こってきた。それらに対する答えは歴史学者たちによってもう出されている問題ばかりなのかも知れないけれど、そこは素人の気楽さ、あれこれ想像を逞しくしてみるのも楽しい。
 そのうちのひとつにだけ触れておきたい。
 昨日の記事で見たように、持統天皇が火葬されたのは崩御から一年後のことであった。この一年間は殯(もがり)に相当し、殯とは、崩御に際して内裏の庭に殯宮をつくって遺体を安置し、白骨化するのを待って葬る葬法である。上掲の大角氏の著書によると、この殯の期間、生前と同様に食膳が供えられ、それが長期に亘るのは、天皇の完全な死を確認し、次の天皇の即位を確実なものにするためだったと考えられている。
 そこから大角氏は、一年間の殯をへて白骨化している遺体を、なぜ火葬に付したのかという問いを立てている。私もそれは疑問に思ったところであった。氏はこの問いに対する決定的な答えを出してはいないが、『続日本紀』から次のような不思議な話を引用している。
 持統天皇の火葬の三年前の七〇〇年、僧の道昭が火葬にされた(このことは昨日の記事でも触れた)。遺骨を拾おうとしたら、にわかに風が吹いて骨も灰も消えてしまったという。
 これが日本最初の火葬の記録なのだが、この話が天皇の火葬への道をひらく逸話だと大角氏は考えている。そこから、「火葬によって完全に世を去るものと思われたのではないか」と推論されているのだが、今ひとつ説得力に欠けるように私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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