内的自己対話-川の畔のささめごと

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「魂は、身体のなかで at home であり、両者は一体をなす共生関係にあった」― 西郷信綱『古代人と死』より

2024-07-04 00:09:13 | 思想史

 古代の火葬についてはまだまだ興味深い問題が残されているし、新たにご教示いただいた文献もあるが、それらの問題にはもう少し勉強してからまた立ち戻ることにして、地獄の思想史という今回の本題に戻ることにする。
 西郷信綱の『古代人と死』に収められた論文「黄泉の国とは何か」(1997年)を見ていく。
 西郷はこの論文以前にも何度か黄泉の国のことを取り上げているが、この論文でまたそれに立ち戻る理由を次のように述べている。「それは、「黄泉の国とは何か」が死と葬りの原点にかかわっており、思いのほか厄介な問題を抱えているせいである。私たちが無邪気な誤りを犯したり、肝心なことをうっかりやりすごしたりしている点があれこれあるように思う。だとすればそれらを是正し、新たな読みの地平をもっと虚心に探ってみなければならない。」
 同論文の「二 死体と魂」の冒頭には、死体が変貌していく過程の記述として『往生要集』の大文第一「厭離穢土」からの強烈な印象を残す一節が現代語訳で引かれている。かなり長いのでここには引用しない。この現代語訳、講談社学術文庫版で読むことができる(「厭離穢土」の「第五 人道」「一 不浄」のなかの、「ましてや生命の果てたのちは、人は墓場に棄て去られる」という一文で始まる段落。岩波日本思想大系本の訓み下し文では「いはんや命終の後は、塚の間に捐捨すれば」で始まる段落〔三七頁〕)。
 その一節について、西郷は、『古事記』に見られる黄泉の国での死体の記述とは主題がまるで異なるという。『往生要集』では、人間の肉体はあくまで不浄で穢れたものであり、だから肉体に宿るもろもろの煩悩を速やかに斬って棄て、欣求浄土にいそしまねばならぬという処方箋が提示される。
 ところが、『古事記』が語っているのは、人の死後、蛆が湧きその肉体が腐食するとき、そこを棲みかとしていた魂にどのような異変が生じるかということで、身体を魂の牢獄と見なそうとしているのではない。
 神話時代における死霊とか魂とかは、たんにそれじたいとしてではなく、つねに身体との関連において考察せねばならぬと西郷は言う。死は、魂とカラダとが離れ離れになってしまうことをいうが、かといって、何か物が容器の中に入っているような関係ではなく、魂は身体にいわば棲みこんでいる。
 「ナキガラが野山に遺棄され腐食してゆくのは、魂が永遠におのれの棲みかを失いホームレスと化すことを意味する。それは魂を体に結びとどめていた、いわゆる「玉の緒」が切れてしまうことである。」
 こんな文脈で「ホームレス」という言葉が使われているのには驚かされたが、どうしても使ってみたかったのであろうか。
 「かつて魂は、身体のなかで at home であり、両者は一体をなす共生関係にあったはずである。」ならば、死ぬまではせいぜい一緒に仲良く暮らそうではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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