内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

遠い昔に掛け違えたボタンをもとに戻って掛け直さないかぎり

2024-07-05 08:16:49 | 雑感

 最近、心を打ちのめされるようなことしかありません。
 地獄の思想を通じて死生観へという連載企画(って、勝手に言っているだけですが)は、断続的にまだ続きます。ただ、今日の記事は、なにを今さらという話に過ぎないのですが、あるテキストを読んでいてちょっと打ちのめされてしまったので、そのテキストを引用して、あとはせんない泣きごとを並べることしかできません。
 エコロジー思想のアンソロジー La pensée écologique, PUF, 2014 (本書については2022年6月7日の記事を参照されたし)をちょっと参照する必要があって頁を繰ろうとしていたとき、もうすでに何度も読んだエピローグがまたしてもふと目に止まりました。それはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から取られたよく知られた一節です。岩波文庫版の大塚久雄訳を引きます。

ピュウリタンは天職人たらんと欲した――われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的な・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げることに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。

 この一節については、上記のアンソロジーについての記事の翌日の記事で話題にしています。今回期せずしてまた話題にするのも、それだけ今の私の心にも重く深く響くからだと思います。しかし、それは、テキストの内容がよく理解できているからではなくて、読むたびに私個人の出口のないもがき苦しみを深めるからというに過ぎません。
 先月からずっと、ほんとうに毎日しんどくて、生きているのがやっとという状態が続いています。心機能に若干の不安を覚えるものの日常生活には支障なく、慢性疾患があるわけでもなく、ジョギング・ウォーキングあるいはサイクリングで毎日体を動かし、研究休暇中ですから仕事が忙しいわけでもありません。ただ、いろいろなことが重なり、見るもの聞くもの触れるものすべてに対して神経が過敏になっていて、それらがすべてネガティブな方向に心を引きずっていくのです。
 すべてが崩壊しつつあるという妄想から抜け出すことができません。だから読書もちっとも楽しくありません。必要があって読んでいる本も読むのがしんどい。ドラマや映画を観ていても、ストーリーとはあまり関係なしに、あまりにも情けない自分の人生に対する悔恨が不意に心に湧き起こってきて、涙が溢れてきます。
 遠い昔に掛け違えたボタンをもとに戻って掛け直さないかぎり、身にまとったシャツはボタンがずれたまま、誰の目にもごまかしは結局効かないということをこの年になっていやというほど思い知らされています。もうもとに戻って掛け直す時間はありません。
 負け戦とわかっていても、戦場から逃げ出すことはできず、討ち死か飢え死かわかりませんが、命が尽きるまでのジタバタの現場記録、それがつまりはこのブログなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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