内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「そして、それがないとすれば、つまりは何もないわけだ」― チェーホフ『退屈な話』より

2024-07-06 00:26:15 | 読游摘録

 先日、やっとのことで『ドライブ・マイ・カー』を観ました。この映画が高い評価を受け数々の国際的な賞を受賞して話題になっているときから観たいとは思っていたのですが、そしてAmazonプライムで観られることもわかっていたのですが、三時間を超える長編ということもあって、いつかいつかと先延ばしにしていました。観てよかったと思いました。一回観ただけではわからないことも多々あると思いますが、印象的なシーンやセリフがいくつもあり、それだけも観た価値があったと思います。個人的に特に印象に残ったのは、主役の西島秀俊や三浦透子などが演じる中心的な人物ではなく、ユナ役のパク・ユリムの表情と手話でした。
 チェーホフの『ワーニャ伯父さん』が劇中劇のように組み込まれたいたこともあり、鑑賞後、手元にある浦雅春訳(光文社古典新訳文庫、2009年、電子書籍版2013年)を紐解いてみました。ガリマールのフォリオ版の仏訳も拾い読みしてみました。
 ところが、戯曲そのものにではなく、光文社版の浦氏の解説に引用されていた『退屈な話』の一節に打ちのめされてしまいました。最近、なんか毎日打ちのめされるために本を読んでいるみたいで、だったらやめればよさそうなものですが、もうこれは中毒ですからやめられないのです。中毒が自虐を反復させ、やがて死に至るのかもしれません。
 それはともかく、その打ちのめされた箇所をその前後も含めて同じ浦雅春訳(光文社古典新訳文庫、2023年)でかなり長いですが引用します。今日の記事はそれでお別れです。

 そこで今私は自分に問うてみる、いったい私は何を望んでいるのか?
 世の子女や友人たちや学生たちに私の名前や名声やレッテルではなく、私のなかの当たり前の人間を愛してほしいと願う。そのほかには? 私の右腕になってくれるような者や私の後を継いでくれる者がほしい。ほかには? 百年後に目をさまして、一目でいいから科学がどうなっているかを見てみたい。できれば、あと十年長生きがしたい……。そのほかには?
 それ以上は何もない。いくら考えても、思いつかない。どんなに考えても、どんなに考えの幅を広げても、明らかなのは、私の願望には何か重要なもの、芯になるものがないのである。科学に寄せる愛にも、生きたいという願望にも、今こうして見知らぬベッドに座っていることにも、おのれを知ろうとする志向にも、私を形作る思想や感情や概念に通底する何物かが欠けている。すべてをひとつに結び合わせる何かがないのだ。私のなかで感情や思想はそれぞれ別個に生きていて、科学や演劇や文学や学生について私が下す判断にも、私の想像力が描き出すあらゆる想念にも、いかな練達な分析家といえど、そこに共通した理念とか生きた人間の神を見出すことはできまい。
 そして、それがないとすれば、つまりは何もないわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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