ライヴというのは「その瞬間」。
もともと、トロい「わたし」。
老年もあり、瞬間に捉える能力・聴力がおとろえているように思う。
それは昔も今も同じなような、気もする。
しかし、かつて中高生の濃厚・圧縮された期間に、幸福なキズを負った/負わされた「音」は、深い無意識に刷り込みがされているので、ライヴに限らず、ラジオ、街に流れる音には、瞬時に反応する。
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昨日を振り返る「根に持つ」性根の「わたし」。
しかし、実際にじぶんのブログを振り返ることはない。ゆえに、同じような寝言と妄言を吐き続ける。
病床で「おじいちゃん。そのYMOの話は、もう100回聞いたよ。」と、可愛い「あまちゃん」のような、居ないはずの孫に言われながら、ボケ老人化。
キズを刻んだ音へは瞬時反応の一方、ライヴで聴こえた音全体を、瞬間キャーキャーと跳ねて・騒いで。。。そして、すぐに忘れていける若い十代の脳力が無い。
日曜日の「ワールドハピネス2013」の「現場」を通過して(何度も同じ寝言を語ったような気もするが)すぐに言語化出来ない。
もやもやした塊だけが、残留する。
2日後の今夜。断片化されたものはあれども、まだまだ言語化するには、ほど遠い。
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今夜で一旦、業務終了。死者をお迎えする、お盆が来る。
帰って、缶ビールを呑みながら、ひたすらハサミとノリを手にして、パンツ1枚で・首にタオルをして、他人には意味の無いスクラップブックに・今日持ち帰った・人間がゴミと呼ぶ何かを貼り付けていた。
違うのは、明日からしばしの休みということもあって、貼り込んだ紙面に、久しぶりに絵の具を垂らす。
近時、体内で、何かをつくりたいという衝動だけが燃えている。チラチラと。あくまで「わたし」なる不可思議な体内のみでの事象。
いざ、絵の具を垂らすと、せっかく創った「地」が全てつぶれてしまい「ああああっ」ともなるが「まあ、いいか」と思うしかない。
【ゴミ・スクラップブック、未だ制作過程】
11日・日曜日。21時に終了した「ワールドハピネス2013」。
毎年、最寄り駅である新木場駅までの行列は、牛歩で1時間半を要する。
今年は、お腹・胃の調子が悪いので、たまらずに、駅へ向かう人と反対側に歩き出す。どーでもいい、なる心境で。
人が居なければいいか、という内的欲求。暗がりに向かいたいのもあり。
途中、往路で乗ったバスの停車場の暗がり。ケータイの明かりを頼りに時刻表を見るが、我が島に向かうバスは無いと知り・軽いショック。
「歩かねばならねえべえ。」と思って、東京と呼ばれつつも、でもおきざりにされた、人も居ない道を歩く。
何一つ、お店の明かりは無い時空を歩く。
大学時代、深夜から夜明けまでの夜間アルバイトをした、新東京郵便局を汗だくで通過する。
そして、途中、亀戸まで行けるバスが横を通り過ぎる。
アレに乗れば、ああ・亀戸まで行けたものを・・・、と思いつつ、途中で一軒・峠の茶屋のようなコンビニエンスストアーでトイレを借り、首に巻くタオルをびしゃびしゃに濡らす。
汗を流しながら、神経の集まる首周りに、そのタオルを巻いて熱中症を防止する。
バスに乗れなかった恩恵は、道で出会った孤独なる風景。
そこにシャッターを切り続ける。
バスに乗ってしまったら出会えなかった、夏の深夜の風景。
結果、2時間歩いて、亀戸に到着。
ボロボロで、ヨダレを垂らすくらいの「死のロード」。
脚はパンパン。脳はモーローとしている中、東武線で帰る。
帰れば、12時を回っていた。
缶ビールを開けつつ、睡眠薬も不要なまま、死に堕ちていった。
老年の「死のロード」の後遺症。
それは、2日後の今日も続いていた。
「はんまたきれた/ぬんこまるた」