こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年8月30日 火曜日 ロータス・イーターズ 「心の痛み」'84

2011-08-30 21:01:45 | 音楽帳


’83年のシングル「ファースト・ピクチャー・オブ・ユー」でロータス・イーターズと出会う。
その後、幸宏のオールナイトニッポンでロンドンからリアルタイムのロンドンの新着レコードの良い物を送ってくれていたトシ矢嶋さんの選曲で聴いた「ユー・ドント・ニーズ・サムワン・ニュー」。

この頃、ブラマンジュ、ショーナ・ダンシング、ヘイジー・ファンテイジ等々デュオ(=2人組)のロンドンのユニットがたくさん出てきたが、ティアーズ・フォー・フィアーズ(怖れの涙)が虐げられし子供の叫びと痛みを「ザ・ハーティング」=「傷つく事」に昇華する一方、ロータス・イーターズはピュアな蒼き若さの刹那さを描いた。

’84年、「地平球」「ミスター・ハートブレイク」等々ニューウエイヴが静かな方向の音に向かう中、秋口に向かってかなり大きな動きがあった。
私にとって最大の出来事は、何よりもデヴィッド・シルヴィアンの初のソロ・アルバムであったが・・・・・・・。

その前後に、ロータス・イーターズのファースト・アルバム「No Sense Of Sin」が出た。
日本盤のタイトルは「青春のアルバム」とかなり安直なタイトルだったが、そんな「ベタ」さ・通常ならこそばゆくてたまらないものがこのユニットには通用した。

その当時の「クロスオーヴァー・イレヴン」でデヴィッドのソロと同時にかかったある日の曲が、ロータス・イーターズのこのアルバムに入った「心の痛み」という曲だった。
「ファースト・ピクチャー・オブ・ユー」が夏のみずみずしい「キミとの初めての出会い」を語る一方、この「心の痛み」はティアーズ・フォー・フィアーズに近いニュアンスのものであった。

■Lotus Eaters 「心の痛み(When You Look At Boys)」


***

当時、このアルバムを「通し」で聴く機会が無く時が過ぎた。
そういっている間に、聴ける糸口が無くなった。
レコードは廃盤、CDも存在しない。。。

・・・・そうして、’96年4月大阪から東京に戻って以降、のことだと思う。
新宿から大久保方面に歩く中に、多くのレコード・ショップを発見して、足しげく通うことになる。
そこで、この「No Sense Of Sin」のLPレコードを発見した。
しかし、新譜のように何枚もある。
再発されたのだと思った。
記憶に乏しいが、2000円くらいで買ったと思う。

ところが、家に戻って、そのアルバムをターンテーブルに掛けてから分かってしまった。
レコード盤を磨いても、プチプチとノイズが混じる。
また、中央の部分に曲名もタイトルもない。
また、よくよく見れば、ジャケットもコピーのように微妙にボケている。
不正コピーレコードだった。

まあ、それでも聴ければ良いか・・・と諦めた。
今では、このアルバムも既にCD化されたが、やたらと褒めちぎるのも如何なものかとも思う。
どこの国籍の方が不正コピーLPを作ったのかは知らぬが、ある意味、自分のLPレコードも貴重盤かもしれない。
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2011年8月29日 月曜日 Ulrich Schnauss 「Monday Paracetamol」'03

2011-08-29 21:01:39 | 音楽帳
2001年、ジャニスに行った際に「エレクトロニカ」コーナーがあり、「エレクトロニカ?」という初めての用語を知った次第。
店内をうろうろしていたその日その時間帯に偶然かかったのが、結論としてウルリッヒ・シュナウスのアルバム「Far Away Trains Passing By」だった。
その1曲目の「Knuddlemaus」に、目覚めるような思いがした。
新しい時代の新しいテクノの形に気分が高揚した。

店員さんに「これなんですか?」
そして「これ下さい。」



***

その後、2枚目の「A Strangely Isolated Place」を2003年に聴いたが、そこには、目の前が開かれた「Far Away Trains Passing By」ほどの想いは自分の中に沸き立たなかった。
そういうことは、音楽にはよくあること。
革命が連続に自分の中に起きる事態というのは、極めて稀である。



それから「A Strangely Isolated Place」をすっかり忘れていた。
やたらと「シュゲイザーがどうたらこうたら・・・」と語る人たちが、非常に多かった。
「何だ?シュゲイザーって?」と調べると、’85年登場したジーザス&メリーチェーン「サイコ・キャンディ」、’91のマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「ラヴレス」が挙がってくる。
「ああ、あれね。で、だからどうしたの?」という不思議な感じだった。

ジーザス&メリーチェーン「サイコ・キャンディ」は、最初MTVで見たときに数十秒惹かれたが、アルバムを聴いても、何か「あの」混沌とした中で音を奏でる方法論の披露・・・という感を自分は払拭出来ず、面白く感じられなかった。
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「ラヴレス」は、デヴィッド・トゥープが選曲した不思議なCDに収録された「ルーマー」という曲が面白くて、そこから買ったものの「ルーマー」ばかり聴いてきて、ろくにアルバム全体を聴けていないが、一回通して聴いて余りこれもピンと来なかったゆえのこと。
今もう一度聴いたならば、また異なる面が見えるのかもしれないが、その機会を逸したままである。



「シュゲイザー」がナニモノかでも、どうでも良い事だが、方法論の発表会じゃないから、人の心の深い所に到達する「音楽」となりえなかったら、その曲・アルバムはそこで終わってしまう。
申し訳無いが、これも人それぞれの巡り合わせなのだろう。

***

「A Strangely Isolated Place」で、自分を惹き付けたのが「Monday - Paracetamol」という曲だった。
「Far Away Trains Passing By」がジャケット写真通りに、空に突き抜けるような清涼感があったのに対して、暗闇で抑鬱感を持ちながらもその中での一筋の光明へと手を伸ばす切ない感じがある「Monday - Paracetamol」の良さはじわじわと来るものだった。
地味ではあるが、次第に心に利いて来る曲として、自分の胎内のレパートリーの1つである。

Ulrich Schnauss 「Monday Paracetamol」
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2011年8月29日 月曜日 「開幕」

2011-08-29 08:14:41 | 雑記帳


昨夜から、不眠にハルシオンを使用。
しばしの読書の後、夜半前(0時前)に消灯、眠り落ちたのに、カラダを掻きまくって2時過ぎに起きてしまう。
以降眠れなくなり、3時過ぎ仕方なく缶ビールを呑むことにした。呑みながら読書はすいすい進んだ。
このまま仕事場に向かうか…
とも思わせるくらいの調子だったが。

6時頃、それでもカラダだけでも休ませようと静かに眼をつむり、横になっていた。
…ところが眠りに堕ちてしまう。

7:37うんざりするような気の重さを引きずり、ナメコ汁・温泉玉子・柴漬けでご飯を掻き込み、支度して電車に何とか乗る。

休みからの地獄のような「開幕」が告げられる。
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2011年8月27日 土曜日 散歩日和~秋葉原・須田町・御茶ノ水・神保町~

2011-08-27 15:02:12 | 写真日和


相変わらず左側の首コリが酷く痛む。
先日マッサージ行き、いつもの音楽好き仲間のKさんに揉んでもらうが、なかなか手ごわい。
やっと30分くらいかけて指が入り出した。
お医者さんに言われた筋力トレーニングは続けているのだが。

今日は断層写真結果を聞きにお医者さんへ。

***

朝8時には秋葉原に降り立つ。
カメラ片手に、ぶらぶらジグザグ歩き出す。
神社~須田町再開発地域を廻って淡路坂を登る。
御茶ノ水橋を渡り病院へ。

まずは皮膚科。
日によって担当医が変わるが、治らない湿疹をハダカで見せると「これは湿疹じゃなくて毛膿炎だ」と新しい所見。

続いてペインクリニック。
こちらはタイジョウホウシンで助けてもらって以来、個人的に恩義を感じている若き信頼する先生。
断層写真見せてもらう。
頚椎の椎間板ヘルニアと判明。
頚椎症というもの。
写真に明確に骨からトゲが出ている箇所あり、それが神経を圧迫し絶えない痛みに繋がっているらしい。
がっくり(-_-#)しつつ先生と痛みを取るプランを話し合う。
首側面への皮膚注射の有効性を言われるが、まずは一週間弛緩剤で様子を見て、そこで注射の判断とした。

別れ際「先生、原因は何なんですか?」
先生「老化です。」
自分「げげっ!」
先生「驚かないで。
みんなあるんです。
20過ぎたら老化し始める。
それだけ生きて来た証拠ですよ。
気を落とさないで。」
会計と薬をもらい外に出る。
曇り空が切なく見える。

***

よろよろとよろめきながら御茶ノ水の坂を下ってジャニスに到着。
本日割引セールの日なり。
5枚アルバムを買う。
オーブ、デイヴ・エンジェル、CJボーランド、DJ-Jokke、スムースエース(細野さん・幸宏プロデュース)

店を出ると14時。
軽食を摂った後、神保町の喫茶店でアイスコーヒーを飲みつつ、ジャズが流れている。
かなり写真も撮り、疲れた。
弛緩する。

かなり散歩疲れ。
少し休憩してから、古本屋街にこれから向かう。

――――――
(つづき)
15時半、また歩き出す。
古本屋街で本を物色しつつ写真撮りながら、路地をくねくね。
とは言え、当然、三省堂参りをし、文房堂で動物の手作り小物を見て…。
三省堂書店裏口からミロンガの細道を写真に収めながら抜けると、小宮山書店の露店セールにばったりでくわし、そこに足が捕まってしまう。

○三島由紀夫の1976年の回顧本
〇猫さんの題材のハードカバー本
〇隠れた日本史の本

計3冊を発掘。
また荷物が増える。

その後もくねくねし、秋葉原方面へと。
発見場面にシャッターを切りながら、用事の無い小川町を歩き、優美堂、顔のYシャツを抜け、淡路町、須田町…18時、秋葉原の振り出しへ。
毎度ながらの賑わい。
と思ったらCDセールにまた捕まってしまう。
約2時間以上捕まった結果、15枚の宝を拾い上げた。
今度は大荷物になり、外に出ると夜闇の世界になっていた。

かなり不自由な姿勢になりつつも、さらに街をくねくね。

28日 日曜日、眼を覚ますと、カラダじゅうが痛い。
カンペキに歩き過ぎた。
それでも、外の風が爽やかなので、40分程度写真撮りながら歩いた。
汗をかく。
皮膚科先生「とにかく汗は敵ですから、汗をかいたらシャワーを浴びて下さい」を思い出し、シャワーを浴び、上がって軟膏を塗る。
独りで背中に塗るのに、かなり困難を極める。
いつまでも、こんなことではいけないと痛感する。
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2011年8月25日 木曜日 遅ればせながら雑誌「ぴあ」廃刊に思うこと。

2011-08-25 21:32:42 | 想い出かたちんば
ニュースで、雑誌「ぴあ」廃刊を、想い出深いと語るキャスターが居たが、自分からすれば北斗の拳の名セリフ「お前はもう死んでいる」に「とうの昔に」と追記したい。

雑誌「ぴあ」は6つ上の1960年生まれの兄の影響もあり、小学生の頃から買っていた。背伸びして。
実質、自分に雑誌「ぴあ」が魅力的だったのは、この小学生の頃〜1980年代前半まで。

【当時「シティロード」もたまに買った。】

***

当時は薄い雑誌で、小さい文字を新聞を好きで読む人のようにして眺めて、鉛筆で気になる箇所に傍線を引いた。また、小さいながらも載る映画や音楽の写真カットを、カッターでキレイに切り抜いてノートに貼ったりしていた。
映画・音楽・芝居・・・そういう情報がところ狭しと画面にびっしりな中、ページの端っこに、何気ない投稿者の面白話があって、それを読むのも楽しみだった。

こんな風に情報そのものが貴重であって、そういう時代だから「ぴあ」は輝き・機能し得た。

毎回、終わりの方のページにクイズがあって、見開き2ページになる絵の中で色んなことをしないと答えが分からないようになっていた。答えが出た人ははがきに書いて送ると抽選でプレゼントがもらえた。
とその手前のページにはオススメレコードが3×3か4×4程度紹介されていて、各1枚プレゼントコーナーになっていた。
前回の投稿ハガキの数と各々の倍率が記載されていた。
自分も何度かはがきを出したが、当たったのは1回。

1982年に出たマライアの清水靖晃のソロ「案山子(かかし)」という手書きのネコの絵のジャケットだった。
当選の連絡をもらって、ほくほくと気持ちがしながら、池袋のレコード屋さんにそのプレゼントレコードを取りに行った。

***

似た年齢の方ならば御存知の通り、大学生がこの「ぴあ」を創り、それが細々と自分らのようなファンが付いていて続いていた。
同様にして、渋谷陽一も仲間たちと学生時代に「ロッキン・オン」を立ち上げる。そこには、相当な自費(家からの借金含む)が注ぎ込まれていた。

今回、この想い出を語るに調べたら「ぴあ」も「ロッキン・オン」も創刊は1972年という同一だった不思議な符号に驚いた。

「ロッキン・オン」は当時長髪にベース、ギターを抱えた6つ上の兄が毎月購入していた。
私が「ロッキン・オン」を買い出したのは1981年で、それは坂本龍一のサウンドストリートが始まった4月のほかの曜日(木曜日・金曜日)に渋谷さんが出ていて、それを聞き出すのと同時だった。

「ぴあ」は80年代に入って躍進する。次第に不動の独自の位置を確立する。
一方「ロッキン・オン」は、対立軸であった「ミュージック・マガジン」等に比べて決して売れている訳では無かった。

私が当時買った渋谷さんの「ロック微分法」にこんなくだりがある。

『音楽を文学的論理で語るのではなく、音楽そのものの論理で語る、
それができない限り音楽批評はその自立性を獲得する事ができない。
今あるのは、ごくわずかな心理学的アプローチのみである。
まずさしあたっては、そこから始めるしかないだろう。
太平洋までは出てきた、海の向こうはアメリカである。
泳いでいけば、いつかは着くのだろう。
しかし、そんな事が可能なのだろうか。
しかも、僕はカナヅチだし、そんな心境である。』(1982年2月 渋谷陽一)

「ぴあ」が販売部数を延ばし軌道に乗る中、「ロッキン・オン」は苦戦を続けていた。
渋谷さんがよく言っていたのは「売れなければダメなんだ」。
渋谷さんが音楽を語る際にも同様の事を言っていた。

ただ、当時の自分は、今もそう思うが、この時点での「ロッキン・オン」にはとてもでは無いが勝算は無かった。
それでも、編集長渋谷陽一の「ロッキン・オン」には多くの信者が存在し、ひたすら我が道を行くには、志(こころざし)と信念の強さを感じた。
「お前らはそうやって適当に戯れていればいい。いつか我々はお前らを超えてやる。」というモドキ音楽評論家や雑誌への発言。
元々自分含み死んだ「ロック」を否定・解体する流れに対して、化石化した「ロック」を掲げた「ロッキン・オン」の80年代の中での戦いというのは、極めて厳しい状況だったと思う。

その後、ニューウエイヴも去った後にやってきた、新しい解釈でのロックの登場と復権もあり、ロッキン・オンは自分が当時感じた地点から一転して、大きな躍進をした。
渋谷陽一・彼が目指そうとしたシステムが、メディアの中で実際に稼働し出したのである。これには正直驚いた。
そして、今では「ロッキン・オン」も不動の所へと行ってしまった。

***

話は「ぴあ」から逸れたが、軌道に乗った後の「ぴあ」には魅力が無くなった。
そもそも情報を掲載する雑誌は、情報を手に入れる方法がなかなか無い中で「ぴあ」は自分らの味方であったが、80年代情報の渦となりだした時点で、「ぴあ」は単なる雑誌の中の1つになってしまい、この時点で「ぴあ」本来の果たすべき役割は終えたのだ。

だが、それでも続き出し続けた「ぴあ」は、就職情報産業でバブルしたリクルート同様、多角経営とカネの亡者と化し、自分らの「敵」に変わった。

「ぴあ」も「ロッキン・オン」も、決して勝算があるとは思えない時代に立ち上がり目指した志は同じだったが、今では「ぴあ」=悪という意識が自分の中にある。

ということでまとめであるが、雑誌「ぴあ」が2011年に廃刊するのは遅すぎた。
その手遅れが逆に未だに残る「ぴあ」グループの「経営」自体への不信感を増幅させただけだった。
最後まで表紙を書いていたイラスレイター含めて、まあ既に「ぴあ」では無くなった雑誌でも一応利益が出ていたからここまで適当にやってきたのだろうが、そんな腐った雑誌が無くなろうが、自分にはどうでもいい。
逆に最後まで仕事をもらえるからと続けてきた者に欺瞞を感じざるを得ない。

単に巨大化した「ぴあ」グループの経営の中で、不採算部門を切り落とした。
今回の雑誌廃刊には、その程度のことしか感想が無い。

*********************************

PS:雑誌媒体とは異なる一個人の話。
近時、みうらじゅん兄貴は本当に凄いな、とつくづく思う。

80年代中盤だろうか・・「タモリ倶楽部」に出てきたみうらさんは、当時「オタク」という言葉さえ無かったが、自分の道を行くものの、長髪にサングラスはともかく、とても気持ち悪い感じが漂っていた。
先日、実家で親が「整理して出てきたよ」という中学・高校の自分の写真は、見たくもないほど気持ちが悪かった。
女性が学生時に綺麗な姿と反して、思春期の悩める男が抱えた姿はそういうもの。
当時のみうらさんにも、そういう出来上がった形を成してない段階の妖気を感じた。

そこから時代を経て、90年代以降のみうらさんは次第に、その自分が持っていた世界が世間に広がっていく。
結果、彼が創った「マイ・ブーム」も「ゆるキャラ」も一般人が使う言葉になる。
迷える求道師が、一個人でひたすら進めてきた世界がたどり着いたところ。
「童貞フォーク」を毎日創っては録音に残してきたみうらさんは、好きこそ物の上手なれではないが、今ではすっかりカッコイイ姿に変わっている。
53歳という自分より8つも上なのに、未だに精力的に活動していて留まることを知らない。

この休みに、過去自分が好きだった「ストリーム」というステキそのもののTBSラジオの昼の番組にあった「コラムの花道」のYOUTUBE等を知ることで、そこに出ていた映画評論の町山智浩さんが過去みうらじゅんのお付きの編集者で、今でも自分の師はみうらさんと言うのに出会う。
酒を飲みながら当時みうらさんに説教された町山智浩さん。

「悩んだら、自分の一番好きな人を思い出せ。その人だったらどうするだろうか?そういうことを考えたら自ずと答えは出てくる。」
「ボブ・ディランはどう考えるだろう。ジョン・レノンはどう考えるだろう。まあ、ポール・マッカートニーは常に日和った奴だから参考にはならないが、そういう人が思うであろう答えに、自分が進まなかったら、そこでお前の人生は終わる。自分が好きな人になるのを諦めたのと一緒だから。」
「馬鹿野郎、町山。お前、待っていて自分に仕事が来るとでも思っているのか。俺だってイヤゲモノ(変なお土産)とか独りでいくら言っても、誰がそんなものに寄って来る?自分で企画して、自分でその企画を色んな所に持ち込んで、自分でプレゼンして営業しているんだ。町山!営業しろ。」
みうら兄貴のこれらの言葉には、かなりシビれた休みでした。
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2011年8月24日 水曜日 高橋幸宏「永遠の夏」'94.10 & 写真日和 (8月上旬)

2011-08-24 21:22:50 | 写真日和
政治家が内輪の利権争奪に明け暮れる。
しかも、東日本大震災と放射能の件は当然何らカタが付いていないさなかで。
海外の国からは、実に不思議な国に見える。

TBSラジオの「DIG」を聴き、そこで得た情報には不審気な事柄が山ほどこの国にはある事を認識す。
個々の事象の出方というのはバラバラだが、そういうものからあぶり出される構図があるはず。「点と線」は全体を浮かび上がらせるだろう。

・韓流偏向のフジテレビにデモがあったのを予想通りメディアは見えないフリをする。
ただしメディアがどんな構造になっているかも、みんなお見通し。

・島田紳助とやらが引退、?とは言えないが。そのせりふが不審気。
そもそも引退しても喰うに困らない人が会見を開く。わざわざ。

・暴力団とのしがらみ?そんなものは相撲・野球同様あるのはみんな分かっている。
2011年における暴力団も街宣車の右翼風団体も、そういう「外見」をしているだけで、中身は極道でも右翼でも無い・構成が異なるのもみんな知っている。

・オバマの発言なども「点と線」の1つの点のように思う。
大阪府橋本知事の発言・動向も気になる。

擬似「日本」という国の形も無くなった国。
海外の人に不思議に思われる要因を辿ると、一応国の形をしたこの島は、既に外人に乗っ取られた国ゆえだからだろう。
それを言うと、戦後がアメリカの・・・ということを引き合いに出されるだろうが、自分が思うのはそのファーストステップでは無く、もう1ステップ別の次元にこの国が来ているように思う。裏カネがどこに流れるかだけで事が左右されてしまう国の有り様。

***

90年代以降、幸宏も迷走していた。
1994年大阪で、東京発信の竹中直人さんの深夜番組「恋のバカンス」を毎週見て録画するのを楽しみにしていた。
理不尽な怒りをあらわにする竹中さんのコントへ魅了されていた。
いっつも、吉祥寺の井ノ頭公園を舞台にした毎週のコントは、大阪という異国の地に居る自分の活力だった。
ここに幸宏は「流しのドラマー ジャッキーテル彦」として登場。
そこで流れた幸宏の「青空」は、久しぶりの幸宏にしか描けないロマンティシズムに溢れていた。

久々にこの曲を聴く。
「青空」も好きだが、実は自分はこのCDシングルのB面、じゃ無かった、カップリングされた「永遠の夏」という曲がとてつもなく好き。
この曲はアルバムでは英語で歌う別のタイトルになっている。
しかし、自分の中では、この「永遠の夏」がいつも鮮やか。

「夏が死んだ 砂浜で ボクはキミに恋してた
二人は まるで双子 胸のキズやほほえみが よく似てた
i know you're there キミは 泳ぐ
今・・・・・でも・・・・・ボクの 海を・・・・・

世界中の悲しみを 癒すように 抱きしめた 風の午後
i know you're there キミは 眠る
もし・・・・・また・・・・・逢える日まで・・・・・

i know you're there キミと見てた
i know you're there 永遠の夏・・・・・」
(詞:森 雪之丞、スティーヴ・ジャンスン/曲:高橋幸宏、スティーヴ・ジャンスン
編曲:高橋幸宏、スティーヴ・ジャンスン)

***

既に死んだ夏の残骸。
8月上旬に過ごした日々の写真を綴る。

8月1日

夜中に撮った花が眠る姿。


そういう夜中に映画「リング」「らせん」を一気に2本観てしまう。
深田恭子が映るヴィデオの映像を編集する人の機械の制御が効かなくなり、映像の中で勝手に動き出し、オバケのようになっていくシーンがとてつもなく怖い。


8月2日

朝の温泉玉子。だし汁が混ざっていて最近お気に入りの食べ物。本当はご飯にかけて食べたら旨いのだろうが、朝にはそんな元気や食欲は無く、このまま呑むように食べる。
食べたらクセになる味。

8月3日

再び、コチャコ。

8月4日

御茶ノ水の順天堂病院でMRIほかの検査。
丸1日かかってしまう。


荒れる天候、自然。途中、小雨が降る。


御茶ノ水駅前通りの空き地。
しっかりと失くなった家の怨念が壁に投影されている。


須田町・淡路町の再開発エリアのクレーン車。
再開発の名の下に、街が壊されていくのには昔から胸が痛む。
須田町は昔々東京の中でも盛りの地で、既にさいたまに移転してしまった鉄道博物館があった場所は、本当は今ある東京駅になるはずだった地。


御茶ノ水駅前通りの陰影。
常に写真を撮り続ける理由は、今の日本では、由緒ある場所さえカネで歴史を潰すようにして消えてしまうから。
「常なる場所」が無い記憶喪失都市東京での自分なりの記憶への留め方。


検査を全部終えて灼熱のヒートアイランドから喫茶店へ。
恵みのアイスコーヒー。

8月5日

スカイツリーの本格オープンまで、あと291日。

8月6日

朝の温泉玉子と同時に、最近好きなのが「食べる煮干」。
ビールのおつまみにもピッタリ。

8月7日

「ワールド・ハピネス2011」で、夢の島公園までゆく。
猛暑を超えて、何とか今年もYMOを見ることが出来た。
永遠の夏、の想い出。

8月9日

今日も茨城で仕事をした上で、都内にUターン。
南千住からのスカイツリー。


ジョー山中が亡くなる。一世を風靡した角川映画「人間の証明」のタイトル曲は今聴いても切ない。
当時、TBSラジオで小島一慶さんの「夜はともだち」を聴きながら、間に入った「人間の証明」のラジオCMを思い出す。
『母さん。
僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ・・・。
夏、碓氷から霧積へ行く道で、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ・・・。』
そのセリフにかぶってくる「ママー。ドゥ・ユー・リメンバー・・・」というタイトル曲。
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2011年8月24日 水曜日 YMO「Solid State Survivor」'79.9

2011-08-24 18:02:00 | 音楽帳
ほぼ終わった2011年の夏を振り返っている。

ある意味、真実か否かも分からない中、この夏が「節電」「省エネ」と説教のように、あるいは「洗脳」のように言われて、そこに引きづられてそういう商品を血眼で買う人々を見てきた。
おかげで日本チェーンストア協会が発表したように流通業界は潤ったが、果たしてこの購買行動の様が妥当だったのか?については、時間を置いて検証作業する必然性がある。
「単に踊らされてしまった」のでは無いのか?という疑問が晴れない。

***


長いこと、このアルバムを紹介すること避けて来た。
というのも、このアルバムに出会わかなったら、自分の人生は異なっていた。
そういう背景がある。
話せば長い話になるし、当時、本当に「溝が磨り減るほどに」毎日聴いていた、自分らには革命そのものを象徴したアルバム。
神話化してはいけないが、そうは言えども神棚に飾ってしまうようなアルバム。
このアルバムとの出会いとショックが無かったら、違う道を歩いていた人は多く存在する。

そういう中、かなりの間、自分の中で「封印」してきた。
このアルバムがあったから、今の自分が居るのに。

***

1995年の高野寛くんの「ソリトンSIDEーB」にゲストで出た石野卓球が、当時静岡に居てこのアルバムを聴いて『わあ、未来の音がする』と毎日何回もこのアルバムをキチガイのように自分と同様聴く中、卓球さんの「おかん」が「YMO禁止令」を出し「YMOを聴くのは1日何回」と決められてしまった、という話。
自分はそういう制限は無かったので、毎日エンドレスで聴いていた。
エンドレスと言っても、レコード盤をひっくり返していたが。

***

今日はあくまでアルバムに収録されたB面最後の「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のみのお話に留める。
後の曲は、未だ言葉にするのも怖い部分があるので、制限する。
あくまで1曲のみのこと。

当時、曲に於いての「詞」は添え物と認識していた3人が、詞を全部クリス・モスデルに任せていた。この曲の作詞もクリス・モスデル、作曲は幸宏。

自分は、全曲好きだったもののこの曲はアルバムの中で、好きな曲の順位から言うとかなり下に位置している。
A面4曲の衝撃が上の方にある。

じゃあ、何で取り上げるかというと、3・11直後にはとてもでは無いが言えなかったこと。
この「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」というのは、1979年当時の人類の未来予想図というニュアンスを少年のボクは思っていた。
そういう雰囲気をYMOはこの曲で描こうとしていたのは、自分の感覚と一致していたと思う。

「ある障害・戦争・ビョーキ(ペスト等感染のような時点解決出来ない菌類含む)を超えて生き残った生命体」というのが、曲目の意味。

3・11以降、三島由紀夫が過去言ってきた言魂を改めて思ったり・・・そういう中でYMOのこの曲が自分の脳に浮かんでいたのは事実だった。

福島原発に防護服で入る人々の姿。制御出来ない放射能・拡散するのを避けられない様。

1979年当時、コドモの自分は五島勉の「ノストラダムスの大予言」を信じてしまい、20世紀末には世界最終の場面が来ると思い込み、曲の中でフィルターを通しセキ込む人や語る会話のノイジーな様・間で笑う様・・・そういうモノに「人間はいずれそういう最終の時期を経て、淘汰されてしまい生き残った者たちは生き残ったものの、毒ガスマスクのようなモノを付けて、普通の生活が出来なくなる」。
そんな像を描いていた。

時期は異なったが、まるで原発が撒く放射能の中、福島原発付近で防御する様とこの曲が重複してしまった。
こんなことを想定していないかなり前の音楽本には、この曲が「人類最後の放送のイメージ」を細野さんらが描こうとしていたと記されている。

***

1979年当時「未来」を感じて、目の前が開かれたこのアルバムの曲に、こういう感を覚える32年後・切実な問題として捉えるときが来るなんていうことは思いもしなかった。

五島勉が単なるペテン師だったのは後になって解明されたが・当時は「そうは言えども、じゃあウソだとは言い切れない」そういう微妙な立証不可能なものだった。

何か今取り巻いている3・11後の有様も何か似ていて、何が妥当で何が妥当では無かったのか?そういう検証が後々必要になると思っている。
多くのウソが混じっていると自分は思っている。
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2011年8月23日 火曜日 夏のフェイバリッツ・51 ヤニー「ルッキング・グラス」'86.8

2011-08-23 23:54:14 | 音楽帳
トーマス・ドルビーでの話と重なるが、二年目の浪人の頃の追い詰められ方は半端ではなかった。
どこに居ても落ち着かない。
というか、どこにも自分の居場所がない感覚が常あって、強迫行動に出ていた。

よくある強迫神経症にある話が、何度も手を洗ってしまう。手があかぎれを起こそうとも汚く感じ、絶えず手を何度も洗ってしまう、という例。
もしくは、電車に乗ると「もし、ここで心臓が止まったらどうしょう」とトンネルに入ると、怖くて息苦しくなってしまう・・・そこから電車に乗れなくなる。
または、家の鍵をかけて出たはずなのだが「もしかしたら鍵が締まっていないかもしれない」と家に帰る・・・それも何度も何度もになり、最後、家から離れられなくなる。

自分も幼い頃からこういう体験は既に通過していた。
逆に、20で精神医学書等を読み漁った中で、こういうことは他人も有るんだなと、初めて分かった次第。
幼い頃から起こったそれらの事象は、自分固有のモノだと思っていたので、誰かに「助けてください」と言えず・自分の内面を打ち明かせる神経すらも無く、言える相手もおらずに独り苦しみ、そして、越えてきた。

じゃあ、それらの事象と、二年の素浪人が行き着いた地点とは、何が違うのか?
と言えば、私的内面の話で済まず、社会的な側面があったことかと。
家と社会の板挟みにあった点だろう。
兄貴が親との対決を越えて東大に行ってしまい(そういう意味では、兄も自分の側には居なかった)そういうエリート以外は認めないという断固とした親との齟齬の世界。
一方では、そういう家やしきたりを越えて、何でメシを喰うかはあるが、そこから離脱して独りで稼ぐ能力も・勇気もなく・・・。

悶々と御茶ノ水・神保町界隈の人混みに混じって街を放浪しながら「キチガイになってしまうかもしれない」という精神状態が時折訪れた。
次第に図書館に居ても、周囲が迫ってくる幻覚(当時は幻覚では無く現実)に押しつぶされそうになって、建物の外に出たり・・・。

そして、先ほど言った、その時点の強迫行動というのは、当時カメラもビデオも携帯も持てぬ中、常に自分ノートというものにしがみついて、自分の座標になりうる言葉をしるし、今音楽はどこの地点にあるのか、どういう方向にこれから舵を切るべきかをメモすることと、音楽至上主義と言っても過言では無いニューウエイヴの音楽を異常な思い込みでしがみついて聴きつつ・そこに自分を固定させ・ぶら下げようとしていたこと。

妙な表現になってしまうのだが、時間が経つと周囲が全く違う世界に見える幻覚にも苦しんでいた。
眠って起きると昨夜までの自分が無くなって空っぽになっていることが度々あった。
次第にそこから寝ること自体が怖くなって不眠にも陥っていく。

「今」の連続体が自分の構成物なのか?
は未だ謎だが、何か目印となる言葉や音をノートと脳に叩き込むように常書き込んでおかないと、時間の経過という悪魔が、自分の周囲の世界を変えてしまい、いつの間にか島流しに遭うように、別のポイントに流されてしまう。
そんな恐怖と戦っていた。

***

今思えば、音楽は自分を育てた母であるが、ある部分では自分を呑み込んでしまう魔物でもあった。
頭の中で音が鳴り止まない幻覚もこの頃に経験していて、それは常に携帯音楽機器など無くても脳で音を鳴らす訓練と練習が祟った結果でもあった。

長々と書いてしまったが、この時期毎日聴いていた音楽は、大学時代は苦々しく思い封印してしまったのだが、そこからも数十年経た今の自分はその苦々しさも含めて肯定できるほどになった。

1986年8月発表のヤニーという人の「ルッキング・グラス」という曲を初めて聴いて録音したのは、やはり「クロスオーヴァー・イレブン」だった。

苦しみの中でも、比較的融和がたもてる、気が狂わない方向の音だった。
自分の中では、タンジェリンドリームが次第にポップになっていった地点で鳴らしていた音に近い。
この曲は、録音をした日から毎日聴き、脳に刷り込み、キチガイになりそうな時に、それを逃すために鳴らす音の中の1つだった。。。。

***

1991年大阪で社会人になって以降、それはそれで別の地獄が待ってはいたのだが、土日はせっせと梅田通いを自転車でして、昔のレコード漁りを続けた。
それは、東京に戻った1996年以降も続く。
そこで、ヤニーのこの「ルッキング・グラス」が入ったアルバムを発見する。

アルバム『キーズ・トゥ・イマジネーション』。

この後、ヤニーの別のものも聴いた。
が、この1986年前後から以降に向かって「ニュー・エイジ」とか言い出した、喜多郎などの音楽の延長線上にあった『環境問題』が『宗教』と微妙に交錯し合ったやばい匂いを思わせて、微妙に感じた。

ただ、だからと言って「ルッキング・グラス」との一期一会を否定するつもりは毛頭無い。今でも好きな曲である。

このヤニーのアルバムは、元タンジェリン・ドリームのピーター・バウマンが創った「プライベート・ミュージック」というレコードレーベルからのものだった。
それを知って「なあんだ。自分が近いと思っていた音は、やはり根拠があったのだな。」と妙に納得した。

このアルバムは、ヤニーのセルフ・プロデュースだが、エグゼクティヴ・プロデューサーに社長ピーター・バウマンも記載されており、彼がミキシングも行なっていた。

実に長い長い話になってしまったが、そのいにしえの「ルッキング・グラス」を今夜は聴きたい。
これも秋に聴く曲だが、もう解禁しても良い頃だろう。

Yanni 「Looking Glass」


この曲が入ったカセットにはタンジェリン・ドリームの曲「ホワイト・イーグル」が入っている。
そういう位置付けで、当時、この曲を捉えていた。

****************

PS:急に思い出した。当時、御茶ノ水駅前は、勧誘の場であった。
春日の図書館から歩いて御茶ノ水へ・・・。
その夜の中、自分が勧誘された。
色々話した挙句、事務所で見せたいものがあるので・・・とその女に付いて事務所に行ってしまった。
そこで「ビデオを見てください」と言われて見れば、数分で笑ってしまった。
長く続く宗教戦争や社会のネガティヴな事象が映像化され・・・最後に「これらの混迷時代を生き抜き、皆さんの悩みに答えるのが、このビデオ24巻セットです」。

「もう、結構」とその場を去るが、馬鹿な自分はそこで電話番号を残してしまい、結果的にそういうものが裏を通じて、多様な商品売り込みの電話となって帰ってきた。

なぜ、自分がそこまで付いて行ってしまったのか?
未だに不思議でならないが、結論としては「寂しかった」のだと思う。

今の自分が考えているのは、勧誘に声を掛けられた時点で、そこにはスキがあるのだ。
彼らは、当時の自分のような不安定な人を見分ける技術を持っている。
ナンパと同じ。
声を掛けられて立ち止まる事そのものが、何か満ち足りないものを持っている証拠。


内田裕也・たけし出演の映画「コミック雑誌なんかいらない」でも描かれた豊田商事会長刺殺事件。
1985年4月から始まった素浪人生活では、時代を象徴する事件がたくさんあった。
この霊感商法を行なっていた豊田商事会長がマスコミの目の前で刺殺されるのを静止もせずに、それをバチバチと写真に撮り雑誌に載せたフォーカス、フラッシュ、フライデーという時代。(YMOの「浮気なぼくら」にある『フォーカス』という曲はこの手の雑誌の有様を指している)
個人の内界とアイドルという芝居(外面)の狭間で飛び降り自殺をしてしまった岡田有希子ちゃんの事件。そのなきがらを蹴り上げ顔を撮った、この手の雑誌の写真撮影者の不遜な有様。
ショックな事件が多くあった80年代中盤。

そんな時代の勧誘という事象が、自分のようなすがる所の無き者が、結果的に膨らみ1995年のオウム事件へと収斂していったのだと思っている。
80年代後半に「ニュー・エイジ」と言い出したのも、FM東京が「アース・コンシャス」というモノを自分の放送局のイメージ化に使おうとしたのも、当時、急に環境問題がブームになりだした元に在った。
その環境問題とセットで新興宗教の躍進が有ったので「ニュー・エイジ」という言葉には抵抗があった。

・・・・そういう過去を経て、今では勧誘に声を掛けられることも無くなった。
逆に、阪神淡路大震災後に、大阪から戻った東京で、駅前で募金する怪しい連中に声を掛け「お前らこの金がどういう経路で被災者に届くのか説明してみい」と追い詰めた。
よく分からない説明で「被災者に募金が・・・」と繰り返す中、タネ明かしで「俺がその被災者だよ。あんたが集めたカネは、いつ俺のところにたどり着くんだよ。警察に行くから一緒に来い。」と首根っこを掴んで引っ張った結果、走って逃げられた。
「あの頃」から、ずいぶんと遠いところに来てしまったなあ、と今思う。
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2011年8月22日 月曜日 夏のフェイバリッツ・50 トーマス・ドルビー「Budapest By Blimp」'88

2011-08-22 23:48:19 | 音楽帳
私にとっての日々「より異なる地点へと」向かっていったニューウェイヴ/テクノは1986年末を持って終わった。
他の一般音楽の中に溶解していったような感じであった。

そこには、二年浪人した末の葛藤が精神分裂症と同じ症状として現れ、自分の中のコントロールが効かなくなり、自分の体内が自分を殺しに来るという妄想として現れ苦しみの末、自害しようとしたが失敗に終わり・・・病院通いが始まり、弛緩剤によるヘロヘロな状態に麻痺されていたのが、1986→1987年への峠の時期だったのが、重なっている。

これは私個人の私的状況だったが、そこから自分にとって終わってしまった音楽について、積極的には聴かず(それは妄想を助長するため)、雑誌も買わず、音楽シーンともサヨナラを告げた。

それ以降、雑誌を見たり・チャートを見たり・リアルタイム性のある音楽シーンを無理して追い掛けたり・・・そういう行動から「降りた」。

偶然との出会いというものが、その後の自分の音楽の集積となる。
ある種の呪縛からの開放。

***

とはいえ、日本に居る以上、音を避けて通るわけにもいかず、遠目で見ながら、時折、ラジオから流れていた、過去お世話になったミュージシャンの動向は気がかりではあった。



トーマス・ドルビーは1984年に「ザ・フラット・アース」を発表後、なかなか新作を出さなかった。
浪人の頃には、映画「ハワード・ザ・ダック」のサウンドトラックに創った『ドンド・ターン・アウェイ』がとても好きで聴いていた。
この曲では、スティーヴィー・ワンダーが吹くハーモニカが素晴らしくグッと来た。

また「ドルビーズ・キューブ」というユニット?らしき名義で出した『キューブは貴方とともに』も聴いた。
この曲には、ファンクの影響が強く、目立って優れた曲では無かったが、カセットにエア・チェックして聴いていた。

彼の3枚目のオリジナル・アルバムは、1988年に発表された。
気になってFMの特集を聴いたが、ピンと来ないのと・がっかり感と・・・そして「やっぱりニューウェイヴは明らかに崩壊したんだな」と確信した。

レコード盤のジャケットを見て、まず「一体、何をやってんだ!」という落胆と怒りがあった。

【サード・アルバム「エイリアン・エイト・マイ・ビュイック」】

***

どうやらドラマ仕立てにしたらしく、宇宙人が自分の愛車を飲み込んでしまった、とのことで、裏ジャケットには、ハンバーガーショップから出てきて置いていた車の所に行ったら車の本体が消えていて、ポテトやコーラを持って唖然とするトーマス・ドルビーのコミカルな姿。

「誰もこんなことを、君に望んでいないよ」そう自分は言いたかった。
知的でメロディアスな音楽を創り出し、憧れだったトーマス・ドルビーの姿は、もうそこには無かった。



いくらUFO好きの自分でも、彼がこの時点で明らかにアメリカ受けの視点で、こういった下世話なジャケットと、フェラーリがどうしたこうした・・・と大して出来の良くない曲を並べている様は、完全に彼自身が持っていた資質を殺していると思ったし、イギリス・ニューウェイヴィーの恥だと思った。
「お前までもが寝返り、裏切ったのか」そういう想いで一杯になった。

そこから相当な間、彼のこのアルバムを「そういうもんだ」と思って、悪夢として見捨ててきた。

***

再び聴くに至るのは、90年代以降のこと。
と言ってもA面から聴く自分は、その段階で、何度かのトライで、即パスしていた。

素晴らしい曲があると発見したのは、2000年以降のこと。

B面に「The Ability To Swing」と「Budapest By Blimp」を発見。

特に「Budapest By Blimp」の素晴らしさは、このジャケットさえ無ければ、音だけ聴くことが出来たら、もっと早く発見出来たかもしれない。

しかし、音楽というのも一期一会。
会えなかったのには、ちゃんと理由があって、そこから離れた地点で出会えたのも、何かがあるのだろう。

1988年当時ラリっていた自分とは全く異なる時代と状況の中で、今の自分の中では「Budapest By Blimp」は、自分好みの名曲と言える。
トーマス・ドルビーの面目躍如。
彼にしか書けないこういう曲を中心として、アルバムを創れば良かった。
しかし、それも時代の流れの中での彼のその時の判断だったのだから、仕方が無かったのだろう。

THOMAS DOLBY 「Budapest by Blimp」


街路の曲がり角で、君の名を呼ぶ 流れてくる僕ら二人の調べ・・・
小さな手が僕をつかむ 炎のように 月の満ち欠けのごとく、蒼白く

カフェで、ショッピング・モールで、君の幻を見る
幻は黄昏の露の上に、霧と消える

しかし本と写真は同じものとは言えないさ
あの列車はもうすぐに出発してしまう

・・・・・保守主義者の、ブダペスト

柱や宮殿の上でもどこででも、君の手を握っていよう、霧が晴れるまで・・・
僕がどんなに遠く彷徨ってきたかを理解するより
もっと強く抱きしめているのがいいと思う

悲劇を目の当たりにしてもなお、偉大なる幻想の死を知るのはあまりにつらいから
僕らはその宝を嘲り、その輝きを掠め取った
学校では教えられなかったんだ

・・・・・多分、忘れることのほうが簡単なのよ
 私が旅立つ理由を知るよりはね
 過去から剥ぎ取ったページなの
 列車は離れて行くわ、この霧から

・・・・・保守主義者の、ブダペスト

さて、紳士淑女の皆さん、ご紹介したいものがあります
どうぞ、とくとご覧あれ

このしわくちゃの地図とダイヤグラムは、歴史書から破いた1ページ
時の中で凍りついた、掛け替えのない古代の遺物
ユダヤの灰の上に築かれているのが分かるかい

君の好奇心を満足させようか?
華麗なる美は、ズールー族の血で署名されたんだよ

まったく上げ足歩調どころか、びっこ引いてるじゃないか

…保守主義者の、ブダペスト
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2011年8月22日 月曜日 夏のフェイバリッツ・49 スザンヌ・ヴェガ「Tired Of Sleeping」'90  

2011-08-22 19:53:30 | 音楽帳

怠惰な自分。
昨夜は結果なかなか眠れずに寝付いたのは夜中の3時半近くだった。。。

そして、気がつかない間に、またカラダじゅう湿疹が出て、掻き苦しみながらも、まるで希望を失った者が、この世で起きていること自体が苦しみそのもののように、10:00、12:00、15:00と途中目覚めながらも、結局、17:00まで眠ってしまった。

起きて外を見れば、もう薄い闇が街を包もうとしていた。
小音量でラジオを付ければ「荒川強啓デイキャッチ」から阿蘇山大噴火さんの裁判傍聴日記が流れている。

次第に闇が迫る中、ラジオの音が聴こえる中、ゴミ屋敷の別室でCDの山から必死で選んでまさぐると、地震が起きた。

18時過ぎ、電飾を灯す。
オンワードのCM「組曲」にピアノとアトモスフィアのみで創られたCDをセットして流して、熱く濃い緑茶を口に含みながら、つらつらと思うがままに文章を書き出す。

「ハード・ロマンティック - モダーン・アンビエント・カラーズ - 」という1996年10月発表のCD。
ひたすら、月・夜・闇・・・静かな空間の隙間に漂う空気感。


***

「夏のフェイバリッツ」などと書いて音楽を紹介してきたが、私はもう先週末で夏は終わったと思っている。
だから、タイトルも変えるべきとも思う。
もう、夏では無い。それは喜びべきこと。
そして恵みの雨としっとりした低温度の世界。
これで、生き物たちも植物たちも、何とか救われる。

既に死亡を確認した夏の余韻を、有難く思っている。
死んだ夏への供養・葬礼歌を今後は一定の時期まで綴ろうかと・・・。
まあ、それも明日になれば、そういう気持ちすら変わってしまうかもしれないが。

***

休みをもらったのが良かったのか?悪かったのか?と言えば、悪かったのかもしれない。
ただ、休みになるとひたすら眠ってしまい、長時間睡眠の果ての寝起きに罪悪感を覚えることもしばしばの自分だから。
また、家から出ないで、音楽とビールとの生活に入るさまは、世に言う「引きこもり」「自閉症」的な独り者の孤独な世間離れした世界。

近所は、家族持ちだらけの中、自分はある種の変人視。
自分は、幼い頃から変人扱いされてきたが、そういう差別を意識することはとうの涅槃を過ぎてしまった。

***

スザンヌ・ヴェガに出会ったのは、1986年末に自分の中でニューウェイヴ=音楽が終わり、1987年から病院通いが始まり・精神分裂病に使う弛緩剤でふらふらになり、そういう姿で余生を送るように、大学でも家でも絵を描きながら、時代が迷走し初めた中であった。

音楽が妄想を加速化させること、既に音楽を見捨てたこと、また聴くに耐えるものは無いこと・・・そこから新しい音楽が出ようが出まいが、そういう時代や騒ぎのある場所から可能な限りの距離を取っていた。

ただ、そんな中で偶然「ルカ」という曲に出会い、既に時代はMDに突入する中、自分はカセットテープに録音した。
幼児虐待をテーマにした曲だったが、そういう歌詞世界には興味がなかった。
流麗なギターとシンセで作られた音空間のエコーの在り方が、元音楽趣味人だった自分を捉えた。

20:22追記:つい書いた後になって「ルカ」も久しぶりに聴いてみたくなったので、挿入する。


大学時代に出会った音楽というのは、今まで語ったように極めて少ない。
それまでの1986年までとは全く異なる量。
そんな中の1つが「ルカ」だった。
彼女との結び付きがその後どうなるかなんて知ったことでは無かった。

***

大学4年生、社会という船出の直前。
大阪に勤務地が決まり、残る東京での生活に別れを告げる日々の中。
大阪行きの荷物をまとめながら、渋谷陽一さんの1日をかけてのビートルズ特集を聴いた夕べ。

そして、夜のクロスオーヴァー・イレブンとジェット・ストリーム。
1990年か?1991年?の冬。
ジェット・ストリームの後半で特集が日々あった。
ある日の放送でスザンヌ・ヴェガ特集があり、3曲がかかった。
それを聴きながら録音した。
前日か翌日は井上陽水の特集だった。

その1曲目が「眠り疲れて(Tired Of Sleeping)」だった。

「・・・ねえ、ママ。私いつ夢からさめるのかしら?
 私、やることがたくさんあるの。
 私、もう眠るのはたくさんなの。。。」子供の言葉。

その優しさと開放感と静けさを持った曲に、自分は惹かれた。
しかし、時刻は着実に船出の出航時間に向かっていた。
不可逆な世界へ没入していくのは避けようの無い事実だった。

***

1991年4月、右も左も分からない大阪。
あまり良い物件が無い中、梅田に近い所の最上階にある部屋を見つけて契約する。
築数十年という古いマンションの10畳1間のワンルームが、その後の自分の砦となった。

友人も居ない中、また新入社員で「どあほ」「しばくぞ」と日々必死にやっても叩かれる世界で、それでも耐えたのは、ここで根を上げたら自分は情けない姿で東京に戻らねばならないというだけの我慢だった。
その我慢が次第に実り・周囲にやっと認められ出すのは3年目に入って以降だが、その時点での自分はとにかく必死な日々だった。

休みには、自転車で梅田に行き、中古レコード屋さんでレコードを漁るのに費やした。

また、レコードとカセットに執着していた自分だったが、もうそれらが手に入りずらくCD時代に移行する中、日本橋(にっぽんばし)へ行って、色んな音を聴き比べた結果、10万位するマランツのCDプレイヤーを買った。
その帰り道、初めてCDを買った。
それが、スザンヌ・ヴェガの「孤独(ソリチュード・スタンディング)」だった。

このアルバムは、大学1年生の頃、先輩の家を泊まり歩く中、U2の「ヨシュア・トゥリー」、マイケル・ジャクソンの「バッド」と共に、当時、一緒に車で色んなことろに連れていってもらった中聴いたアルバムでもあった。

自分の大阪での孤独とマッチしたスザンヌ・ヴェガの「孤独」。
タイトル曲は・・・部屋の隅っこで「孤独」が自分を見て立っている・・・そんな詩だった。

***

スザンヌは、聴くごとに分かってきたのは、かぼそいつぶやくような声。
その声を、発言することの重さ、ある言葉を発する、この世の側に内界から外界へ。。。そういった事への微細な神経を持った人だった。

下の写真は、レコード漁りをする中で発見したスザンヌ・ヴェガの「眠り疲れて(Tired Of Sleeping)」の10インチ・シングル。

A面・B面各2曲を納めた珍しい変則サイズのレコード。
B面には名曲「レフト・オブ・センター」も入っている。



これらの曲を納めた「眠り疲れて」で始まる3枚目のアルバム「デイズ・オブ・オープン・ハンド」。

その後、まさか・・・と思ったエレクトロニクスやノイジーな音を加えた4枚目「99.9度」というアルバムに向かうとは思ってもみなかった。
その音の在り方は、明らかにスザンヌ・ヴェガの冒険というよりも、それまで居た穏やかな世界から、汚れた世界と堕天使を演じてみせようという作品だった。

彼女の中で、自分のイメージを壊してみたい衝動があったのか、インナースリーヴには裸の複数の男たちの横でSEXを彷彿とさせる美脚があらわになった水着のような下着姿のモノクロ写真があった。

***

その後、結果的にスザンヌ・ヴェガのアルバムが出るたびに買って聴き、ラジオでピーター・バラカンが紹介していたFMでのライヴも録音し、未だに聴いている。
社会人になってから二十年余、彼女と自分との出会いと変遷を色々思う。

■スザンヌ・ヴェガ 「眠り疲れて(Tired of Sleeping)」


お互いの間に、不思議な「糸」のようなものがある。
そういう錯覚を思わせてくれる音楽家。
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