こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年7月31日 日曜日夏のフェイバリッツ・31 富田勲「Arabesque No. 1」'74

2011-07-31 23:00:00 | 音楽帳


「シンセイサイザー」「コンピューター」=未来、という憧れを持った中学生の頃、NHK-FMの日曜日の夜の現代音楽の時間に富田勲先生の3Dで作られたアルバム「月の光」の曲をエア・チェックした。
不思議な音が波紋のように、自分の部屋に響いた。

しかし、その後、おこづかいと録音したい番組との均衡から、この頃のカセットテープというのは、ほとんど上から別のものを録音してしまい、ほとんど残っていない。

後悔はしているが、オカネが無い中学生にはそれしか選択肢は無かったのは事実。

***

ドビッシーの曲をシンセイサイザーで演奏した富田さんの「月の光」には、ポップなナンバーもある。
「アラベスク・ナンバー1」という曲は、その後、80年代NHK-FMの「音楽の森」という番組の冒頭のテーマ曲にもなった鮮やかな曲。

森やすがすがしいその中でのイオンを発する自然の空気が伝わってくるような名曲である。

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2011年7月31日 日曜日夏のフェイバリッツ・30 H2H「FEELS LIKE HEAVEN」'98

2011-07-31 12:48:21 | 音楽帳
自分は、幼い頃から「不思議なもの」に惹かれる性格で、それはいまだに本質は変わっていない。
宇宙に憧れて、宇宙人やUFO番組を夢中になって見たり、心霊・怪奇現象についても同様。

じゃあ、幼い頃と今の違いは何か?
と言えば、当時、宇宙人もUFOも幽霊もあると信じていたことと、今では全部居ないと思っていることの違いだろう。
だから、実は暗闇も平気になってしまったし、平気で夜の墓地に行って飾ってある花をストロボ炊いて撮影したり出来るくらい。
「むしろ、怖いのはお前の方だよ」と言われるように、暗い道で自分と女性が歩いていると、自分の気配に相手が怖くなって、いきなり猛ダッシュで逃げられた経験も多数。
やっぱり自分はエイリアンなのだなと認識した次第。



ただ、全てを大槻教授のようにプラズマがどうのこうの・・・という科学で全否定するのには抵抗が強い。
科学で全て語ってしまえば語れるかもしれないが、どうにも科学でも論理でも明快な答えが出せない・割り切れない何がしか、そういうものがあると信じている。
また、何も無いというのは、あまりに味気無い。

たとえば電気機器。
いくら精巧な精度で作ろうと物体として同じものが量産されているのに、そこによく聴くのは、お袋さんがよく言う「当たり外れがあるんだよねえ」という言葉。
「バグ」という言葉があるが、解明しようとしても解決し得ない「バグ」も存在する。

確率と精度レベルの問題かもしれないが、私はそこにポリスが「ゴースト・イン・ザ・マシーン」というアルバムを想起しながら、本来全て同一であるはずの量産品に出来・不出来があるということに、機械の中にも魂が潜んでいるのではないか?
などと思ったりする。

***

こういう自分だから、90年代後半からのホラー映画ブームは大いに自分を刺激し、ホラー映画をたくさん見た。
よく親に「どうして、あんたはこういうのが好きなのかねえ。。。ぜんぜん子供の時から変わっていないねえ。」と言われるが、そういう不思議なモノに惹かれるのだから仕方が無い。

当然、そのブームの火付け役だった「リング」「らせん」には興味をそそられた。
1998年のこと。
それ以降、この手の映画がたくさん出て、たくさん見た。



「夏ですから」ということで、こういう怪奇ものが「旬」な季節。

「リング」と言えば貞子。


この映像を初めて見たときには、腰が抜けるように怖かった。

貞子と井戸と謎の光景、そして、例の宮崎勤が現場検証の際に頭をタオルでかぶせて顔を隠し・指だけで「ここで子供を殺した」というシーンをそのまま隠喩として流用した映像、そういったものが納められたヴィデオテープ。



そのヴィデオを見ると7日後の見た時間に死ぬといううわさ。


この映画以降、昔にさかのぼって宇宙人・UFO・心霊・怪奇現象に関わる番組・映画等々の音楽も、せっせと探索する日々だが、続編「らせん」はサントラCDを買い、「リング」については映画の最後、呪いのヴォデオを積んで車を走らせるシーンで終わった後にかかるエンディング・テーマが大好きで探して、H2Hの「FEELS LIKE HEAVEN」のシングルCD【写真右】を買ったがこれが大失敗!



H2Hとは何者か?と言えば、所詮は小室ファミリーや「だよねえ」とか歌ってた一発屋ラップなどと同様のくだらない90年代以降の「J-POP」なる訳の分からない汚い群れと地続きにある2人だか3人だかの「ちゃらい」ユニットだった。

よって「リング」のエンディング・シーンのあのゾクゾクする怖いハウス・ミュージックは、実はこのシングルCDには入っていない。
曲目は「FEELS LIKE HEAVEN」で同様だが、結局はこのH2Hというのは所詮素材のみであって、うまいことアレンジャーがその素材を映画「リング」に向けてミックスしたのである。
この名曲は、H2Hのものではなくて、アレンジャーの勝利だった訳である。

FEELS LIKE HEAVEN (Ring Ending Ver.)


しかし、何度聴いても怖くて古くならないカッコイイ曲です。
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2011年7月30日 土曜日夏のフェイバリッツ・29 Vangelis「Alpha」'76

2011-07-30 23:00:00 | 音楽帳


まだYMOが出現する前の小・中学生の頃には、ただ単純に「シンセイサイザー」というものだけで、「未来」というものを感じて、夢見ていた。

「テクノ・ポップ」という用語が使われたのは、YMOがキーとなっているが、それまでは「シンセサイザー音楽」とか「電子音楽」と語っていた。

そういうあけぼのの季節に、何を聴いていたかといえば、富田勲先生やヴァンゲリス先生の音。
後に、YMOのコンピューター制御を行う松武秀樹さんが師事していたのが富田勲先生。

富田さんの作品というのは、ヴァンゲリスと同様、同世代の人々は「この音はどこかで聴いた記憶がある」というくらいに、CMやらドキュメント番組に使われていた。

「キューピー3分クッキング」のテーマ曲も、富田さんの作品。

***

夏には、つい夜空に想いをはせる。
星がきれいにまたたくのは寒い冬だが、人はなぜか夏にも夜空に想いをはせて、空を見上げる。

私が生まれた1966年には、すでに有人飛行で月にソ連とアメリカがしのぎを削っていたおり、その後1969年にアポロが月面着陸を果たす。



幼少から宇宙・UFO・・・そういうものへの憧れを抱き、翌年の1970年の大阪万国博覧会EXPOに4歳で行った自分には、いくらオトナの人が宇宙人など居ないと科学的証明で言われても、45歳にもなっても、宇宙に対する魅惑的感情を抱いてしまう。
これは、今の人には分からない感覚かもしれない。

今日紹介するのは、ヴァンゲリス先生の「アルファ」という曲。
アルバム「反射率0.39」。
同世代の人々なら「この音はどこかで聴いた記憶がある」という曲。
確か宇宙のドキュメントの「コスモス」(=惑星)でかかっていた記憶がある。

日本は、いまさらジローで放射能汚染まみれだが、空を見上げれば、果てしない世界が広がっているのだ。

こんな腐った国のことなど、いまさら憂いても始まらない。
視野を広くして、子供の頃に戻って、空を見上げて欲しい。

【埋め込み禁止なので、Wクリックして見ましょう。】

この曲は「反射率0.39」というアルバムに収められている。
ヴァンゲリスを映画「炎のランナー」のサントラや「南極物語」で知ったと言う人も多いと思うが、それらも素晴らしいが、そんなアルバムよりもっともっと前からシンセサイザー・ミュージックの先駆者であり、重鎮だったのである。

雨が降ろうと降るまいと、ココロで夜空を、せめて夏には想像してみましょう。
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2011年7月29日 金曜日夏のフェイバリッツ・28イーノ「ダンウィッチ・ビーチ・オータム1960」'82.5

2011-07-29 23:00:00 | 音楽帳
昨日に続いてイーノの「オン・ランド」。



ブライアン・イーノという人の知性と才能というのに憧れて・感化された中学・高校生時代。
ウルトラヴォックス、ディーヴォ、デヴィッド・ボウイ、トーキングヘッズをプロデュースし、自らではアンビエントという音楽を提唱し・多くの革命的作品を創ってきたイーノ。

彼が音楽を創る過程での思考方法に興味が膨らんだ。
単純に人々が集まってセッションする中から音楽を産むという惰性的流れとは無縁の知性と思考方法による音楽の組み立て方。
偶発性の持つ力を借りるあたり、ユング的要素もあった。
時にユニークに、時には実にアヴァンギャルドな方法論で、此岸から目標とした彼岸へ到達しうる魔術師にイーノは思えた。

雑誌でイーノを見つけると盛んに読み込んだ。
単なる音楽家ではない。
あらゆる意味で、生きるヒントをイーノが与えてくれた。



また、この1982年夏にはFM東京の夜の「サントリー・サウンドマーケット」という番組で一週間ぶっ通しでブライアン・イーノの特集が組まれて録音し、そこに集中していた。
そこで録音したインタビュー・テープを編集して、まるで説法を聴くかのごとく、テープが伸びるまで聴いた。



当時、ニューヨークはマンハッタンのマンションに住んでいたイーノ。
彼へ独占インタビューを行ったのが立川直樹氏。

音楽に対して、どのようなアイデアとプロセスで創っていくかのヒントがたくさん発見できた貴重なインタビューだった。



さくりんさんにも言ったが、あるコンセプトを最初に置き、それに対してヒントとなるようなモノを配置しながら音創りをしつつ、その進行状況を俯瞰的に確認しながら「これは良い方向に進んでいる、と確信出来るか、泥沼にはまって行っているか、という冷静な視点が必要。軌道修正を加えつつ、目標となる地点に向かっているかどうかで、駄目なら、その曲はばっさり捨て去る勇気を持つこと。」そんなこともイーノの創作法の一部。



音楽はジグソーパズルでは無いので、完成という形が何かは短絡的にはいかない。
よく納期間際になってしまい、トラックダウン段階で音を埋めて行ってしまうことが、その曲のナイーヴな良さを殺してしまうことがある。
そういう発想ではない。
創る途中、荒削りな形であっても、視えない領域に踏み出した瞬間で作業を終えること。
そういう無に潜むエネルギーを信じること。
いじりたくても、そこで完了すること。



「オン・ランド」でイーノはマンハッタンという都市の喧騒と病んだ都市空間とを相対しつつ、ドリーミーな安らげるエア・スポットを創ろうとしていたのが分かる。

「オン・ランド」には、たぶん彼の「とある」想い出なのだろうが、B面最後に「ダンウィッチ・ビーチ・オータム1960」という美しい曲がある。

今夜は、都市東京の夜に、この曲を聴く。



とはいえ80年代特殊都市東京の闇はすでにもう、この東京には存在しないが。。。。
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2011年7月28日 木曜日 夏のフェイバリッツ・27 イーノ「リザード・ポイント」'82.5

2011-07-28 23:00:00 | 音楽帳
1982年4月に高校生になってからの自分には、中学3年の冬から春も経て、この1982年は、宝モノの宝庫だった。
さまざまなことが起きた。

坂本龍一の師匠=ブライアン・イーノに夢中だった1981年以降のこと。
1982年4月ごろに、兄が新譜LPレコードの「オン・ランド」を輸入盤で買ってきた。
自分もカセットテープに落としてもらおうと、話に行くと「今度のイーノはすごいぞ。リズムもメロディーもみじんもない。」そう言われた記憶がある。

そのときの兄の「すごい」というのは半笑いが込められていて、「唖然」というのと同時に「どう手に付けたら良いか?どう位置付けたら良いか?わからない」といった戸惑いだった。

***

当初「エンプティ・ランドスケイプ」(からっぽの風景)という仮タイトルだったLPレコード。
結果、「オン・ランド」という名で発売された。



兄に輸入盤のLPレコードを借りて、聴いて、兄が言おうとしていることが分かった。

この作品は、空港のための音楽、そして、ハロルド・バッド、ララージとの共作を経た「AMBIENT4」の作品。



日本では5月に国内発売された。

ミュージック・マガジンでは小嶋さちほさんがレビューを書いていたが、彼女にとっては、かつてのロキシー・ミュージックでグラムロック的な化粧と激しい衣装をまとったイーノが好きで、まあそれがパンクに影響を与えたのは事実だったが「たら~もわ~というテープ・コンポジションがひたすら続くが、自分のように環境といっても貧しい部屋の中で聴くには、情景自体が合わない」と言って、過去のイーノが好きだが、もう戻れないんだろうね・・・といったことを書いていた。

***



まさに、小嶋さんが言うように、このアルバムは彼が録りだめたさまざまな自然の音を加えながら、大地・陸地とそれを取り巻くアトモスフィアを表現しようとしていた。

ボク自身は聴きながら、ゲルニカのような苦しさはなかったが、得体の知れない捉えられない音楽のため、繰り返し繰り返し聴いた。

ようく聴くと兄や小嶋さんが言うのは、あくまで第一印象で、次第にメロディやあるいはアトモスフィアが示す方向が見えてきた。

不思議なレコードではあるが、あれから30年。
当時の自分が夏に向けて聴いていたのもあり、夏になるとこの「オン・ランド」を取り出す。
1つのあいまいな空間に漂うことが、このアルバムでは体験出来る。

A面1曲目の「リザード・ポイント」はまさに大地の音と人間が住む都市空間のもやもやした感じをよく表現している。
ここでは聞き取りづらいが、下の方でベースを弾いているのは、ビル・ラズウェルである。

A面1曲目「リザード・ポイント」~ 2曲目「ザ・ロスト・デイ」
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2011年7月27日 水曜日 夏のフェイバリッツ・26 ノイ「Leb' Wohl」'75

2011-07-27 23:00:00 | 音楽帳
ジャーマンテクノを先駆けて聴いていた坂本龍一。
そして坂本龍一経由で影響を受けた土屋昌巳。



一風堂の「リアル」がベルリンで録音されたのは、ジャーマンテクノの影響をモロに受けた土屋昌巳がどうしてもこだわったゆえ。

70年代のジャーマンテクノの中、クラフトワークはあるが、ノイというバンドもある。
一風堂の「リアル」には、そのまんま「NEU!」という曲がある。

***



ジャーマンテクノと夏がどう結びつくんだよ?
そういわれる方も多いと思うが、1975年のアルバムに入っている「Leb' Wohl」という曲の海の音と静けさについ、ボクは夏の癒しを求めてこの曲を聴く。

何も要らない。
日々の生活で汚されたなら、ここにおいで。
すべて洗い流してあげるから・・・・・。
静寂と静謐の世界。

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2011年7月26日 火曜日 夏のフェイバリッツ・25 クスコ「ロマンティック・ハワイ」'84

2011-07-26 23:00:06 | 音楽帳
「クスコ」と言って「ああ、あれね」とわかる人は、80年代の同世代人。

当時は、ジャズからフュージョン・・・そしてクロスオーヴァーというサウンドの流れとは別に、イージー・リスニングというカテゴリーがあった。

ボク自身の体感では、要は「ジェット・ストリーム」でかかる曲、ポール・モーリアなどの印象が強いが、あらゆる場所で音が鳴り止まないことになったのは80年代が起点。

誰も希望しないのに、音が無い静けさを理解しないのが始まったのは80年代。
昔からの歴史において、静けさ・音の無い世界・間に対しての独特の文化をもった日本だったが、それをくつがえしてしまったのも80年代以降の資本主義・消費文化。

デヴィッド・シルヴィアンやブライアン・イーノがあこがれた京都の石庭の静寂。
沈黙にこそ隠れたエネルギーがあると悟る人々とは別に、そこと切断された、眠らない365日メリーゴーランドを繰り返す都市。

どこに行っても、その場の誤魔化すために音楽が奏でられていた。
喫茶店、スーパー、さまざまなショップ・・・。

沈黙に耐えられない・気まずいと思ってしまう深層心理が、この病気の要因。

中島義道がこのことを本に書いていたが。

***

当時、今のように有線放送で垂れ流しを出来ない中、喫茶店でかかっていたのが、いわゆるイージー・リスニング。

バック・ブラウンド・ミュージック(BGM)とも言われた。

1980年、どこに行ってもYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」がかかっているというのは革命だったが、それを揶揄したちんけな「音楽評論家」なる者は「YMOはBGMみたいなもんだ」と言い、その挑発に細野さんはある意味怒りを込めて、あえて1981年の作品に「BGM」というタイトルを皮肉を込めて付けた。

***

クスコというユニットは、こういう流れにおいて、アンビエントでもミューザックでもない「イージー・リスニング」を奏でていた。

何枚アルバムを出そうが、ジャケットは楽園の海や空の青い風景だったが、延々とつまらない曲、まさにイージーな音楽を出し続けた。
ビリー・コブハムとは天と地の違う音楽の存在。

当然、血気盛んな自分らは馬鹿にした存在だった。

MZ師とよくクスコの話をすると「あの頃は、最低の音楽として、よく馬鹿にしていたなあ」と想い出を語る。
MZ師が、石丸電気で当時買い物をしたら、そのおまけにLPレコードが1枚付いてきたが、それがクスコだったという。
もらっても困るプレゼント、それがクスコだった。

***

そういう存在のクスコだったが、1曲だけ自分は好きな曲がある。
それが「ロマンティック・ハワイ」である。
ひょっとすると「この曲、聴いたことがある」という人が居るかもしれない。



大きな時代の流れのうねりを超えて(というかクスコには時代性すらも無縁だが)、お恥ずかしながら、この「ロマンティック・ハワイ」は今のボクの夏の定番の1曲となっている。



この曲に自分が出会った1984年の放送とは「ジェット・ストリーム」ではなく、「クロスオーヴァー・イレブン」だった。



この曲は、自分の中で、当時、タンジェリン・ドリームも「流氷の詩(うた)」というアルバムで南極(or北極?)のイメージ・ドローイングのような素晴らしいアルバムを発表したが、そのアルバムともオーヴァーラップする。
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2011年7月25日 月曜日 夏のフェイバリッツ・24 Billy Cobham 「Heather」'77

2011-07-25 23:00:00 | 音楽帳
すっかり80年代を語ると、さまざまな事柄が絡み合ってしまう。
自分の中は、当時のサブカルチャーと音楽で飽和状態になり、精神分裂症的になる。

今夜は、クールダウン。。。。

クロスオーヴァー・イレブンを毎晩聴いていたあの日に戻り、ビリー・コブハムの「クロスウィンド」に入っている「Heather」を聴きたい。



数mmの微細な世界に一喜一憂し、躁鬱を繰り返し、ナーヴァスで狂気をはらんだ当時の自分がいとおしく想える。

猫の目のようにめまぐるしく変わる世界にフィット出来なく、コントロール不能だった世界に於ける自分。

生きるかキチガイで自殺するかの境界線に居た。

そういう時代の自分への鎮魂歌。



PS:ささやかなお知らせ

今年の夏も一時的に「クロスオーヴァー・イレブン」が復活・放送されるそうです。

・今年の春に放送されたアンコール・・・・8月8日(月)~12日(金)23:00~24:00

・新たにこの夏向けに放送されるもの・・・・8月15日(月)~19日(金)23:00~24:00

ファンの方々は、お聴きになっては。。。。。
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2011年7月24日 日曜日 EP-4・佐藤薫との再会・2

2011-07-24 14:01:31 | 想い出かたちんば
1983年にEP-4の「昭和大赦」(原題「昭和崩御」がアウトとなった)を聴いたが、自分には駄目だった中、一方では同時にカセット・ブック「制服・肉体・複製」が発売されていた。



もともとカセットテープにフェティシズムを持っていた自分は、とてもそそられた。
だが「思わせぶりなタイトルばかりだ」と敬遠していたのも事実。
また、もともとおカネが無かったのもある。

1983年に出始めた新しいメディアの形「カセット・ブック」。

限定版であることも多く、本のような厚みの中にカセットを埋め込み、小冊子が付いていて、その小冊子とカセットとの組合せが、私にはとても「欲しい」という感情を渇望させた。

この1983年には、教授の「戦場のメリークリスマス」のピアノ・ヴァージョンを収めた「AvecPiano」が発売され、それは真っ先に買った。



そして、YMOが1983年末に散会した後、1984年秋には、細野さんが「花に水」というカセット・ブックを出す。
イーノの影響で、公共の場で流れるアンビエントを収めたものだった。

***

話はEP-4に戻るが、1984年には「ファウンド・テープス」という12インチが発売される。



あまりにも興味をそそられるジャケットの美しさ。
ここで再度、自分はFMでエア・チェックしたEP-4を忍耐強く聴くが、これもまた自分の琴線には触れなかった。


【YMOウインター・ライブ1981年暮れの冒頭映像】

この頃になると高校2年生。
文武両道の厳しい規律の世界でぼろぼろになり、自分はどんどんと、リズムやドラムの音すら駄目になり、静かな音楽しか聴けない状態に傾いていく。
まあ、それは元からそういう体質と言えばそれまでなのだが。



***

本当にここ数年になって、YOUTUBEで発見したEP-4には狂喜した。
1曲聴いてかっこよく、それに連鎖する動画をすべて見た。
時を超えて気付くものという不思議さ。
同じニンゲンが聴いたものなのに、こんなにも違って聴こえるのは何なのだろうか?

2011年の夏聴く、「ファウンド・テープス」に収録された「ファイヴ・トゥ・ワン」に抱くかっこよさ。

幻のようなもの?
学者がよく言う「お得意のセリフ」を思い出す。

「過去など現存しない。
あるのは、脳が想起する思い違い・思い込みの世界。」

果たしてそうなのか?
私はそうは思わない。
私自体が変化したのだと思う。

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2011年7月23日 土曜日 EP-4・佐藤薫との再会

2011-07-23 16:18:17 | 想い出かたちんば
70年代末から80年代後半に向けて、ニューウェイヴ、そして、アンダーグラウンドを追いかけていた自分だったが、当時、自分に聴く能力が無くて後悔しているものがある。

それが、佐藤カヲル率いるEP-4である。
その粘っこいファンクネスなサウンドは、当時の自分の琴線には触れなかった。


【フールズ・メイト 1983年7月号より】

初めて聴いた記憶が、1983年8月、夏の暑苦しい中だったのもある。
余計に暑苦しさが倍増し、後に貴重なその録音したカセットを消去してしまった。

また、もろブラック・ミュージックそのものの系譜の音が苦手だったのもある。
と言いつつ、多様な音楽を自分の中に吸収していったが、ブラックだけの音楽というのは当時駄目で、インパクトが感じられなかった。
そこにデジタル、テクノ、エレクロニック・・・いろんな味付けが無いと興味をそそられなかった。


【当時の佐藤カヲルは、ハンサムでかっこよかった。そこに追いつくことの出来ない自分が居た。】

夏の暑苦しい自分の部屋に響いたEP-4は「まがいもの」の感じがぬぐえなかった。
ある種、アンダーグラウンドにとどまり、挑発的なタイトルをアルバムに付けたり、その後のミックスチュア的なことをするのも、高校生の自分には、そうすることで神秘感覚を秘めたかのごとく見せるための技術という確信犯的な感情を抱いて拒否してしまったのである。

同じ系譜として、23スキドーなどにも、それを感じていた。

あれから四半世紀以上経ち、ここ数年YOUTUBEで聴いたEP-4のかっこよさには参った。
とともに、当時、自分がそこに同化出来なかったことを後悔した。



高校生の頃、とにかく触覚がきわめて敏感で、胃潰瘍で入院するくらいの神経症だったから、ほんの少しのさじ加減が、自分と音楽とこの世の関わりを左右していた。
ほんの数mm違うだけで、YESかNOとなってしまっていた自分。
フリクション、エディプスは聴けてもEP-4は微妙にフィット出来なかった自分。

胃潰瘍も神経症も、逆療法で酷使することである程度は超えてきたが、途中、自害に失敗しつつ、カネも無ければ安住の地も無い、本当のことを言える・分かち合える友人も居ないといった高校生の心境と、カネ・モノには満たされた隔絶した今の大幅な距離感。

今、すんなりと、EP-4のかっこいいファンクが自分の中に入ってくるのが不思議である。
なぜこうも耳から脳に届く音が違って聴こえるのか?

私はかつて「歳を取ることを昔は自分が次第に摩滅していくと恐れていたが、今は逆に歳を取るたびに、視野が広がり、さまざまな発見がある」と語ったが、このEP-4との再会もその中の1つである。



四半世紀も遅れを取ってしまったが、今だからかっこよく聴こえるEP-4の音楽との再会を、まさに邂逅と言い換えて、聴き込むここ数年である。

EP-4 「Coco」
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